『ポンヌフの恋人』で完結した “アレックス三部作」では “愛の疾走”をみせてくれたカラックスが、『Pola X』で描くのは「真実の疾走」だ。「アレックス三部作」では常に、男が女に出会う- boy meets girl – という “愛”の瞬間が疾走の出発点であったのに対し、『Pola X』では真実との出会いが始まりとなる。
ノルマンディーのとある城に未亡人の母と暮らすピエールは、結婚の迫ったある日、東欧訛りの娘と出会う。「私はイザベル、あなたのお姉さん。」これが真実との出会い、疾走の出発点、映画の始まり。
この真実とは何か?外交官であった父が東欧でつくったこの異母姉?彼女が語る人生?城の中の閉ざされた部屋?彼女との近親相姦?絡み合う肉体を真実は貫くのか?真実は血の中?ピエールが書き続ける「真実の書」の中?世界の真実を握っているのはピエールとイザベルをかくまう秘密結社?世界の真実は戦争でしかない?真実は暗黒の中?真実は人を破滅に導くことしかできない?「真実はどこにあるんだ!イザベル!どこだ!」と絶叫するピエールに答えは返ってこない。彼の書いた “真実の書”は受け入れられず、その中身は日の目をみることはない。
真実が何かとか、どこにあるとか、ましては真実はないということは問題ではない。この映画が描くのは、真実ではなく、それが引き起こす “疾走”、炸裂せんばかりの “生”、その速さと激しさなのだから。
真実に触れたピエールは、亡父のバイクで走ることは出来ない、自分の肉体で走る、足を引きずりながら、杖をつきながら。イザベルも走る、「かわいい弟」 のために。二人をかくまう秘密結社のバンドの音楽も全力疾走だ。ピエールのペンの音がバイクで疾走する母親のイメージに交錯するシーンは、『汚れた血』のラストシーンに匹敵するといっていい。
これらの疾走のたどり着く先すら問題ではない。映画の真実は闇だ。僕らは死ぬから生きている。そして世界は、始まりも終わりもなく、世界のままだ。すべては “死”なのか?無意味なのか?否。重要なのは一瞬でも生きること、激しく、全速力で。この衝撃、この感覚、この疾走が “生”、そして映画。はしれCARAX ! (岳)