10月7日公開の『Fatima』のフィリップ・フォーコン監督の映画と向き合う真摯な姿勢にずっと心打たれてきた。「感傷主義や誇張演出や過剰演技は真実の仮装に過ぎない」と彼が言う通り『Fatima』は削ぎ落とされた、無愛想ともいえる映画だ。
ファティマは、アルジェリア出身の中年女性でフランス語が苦手だ。彼女は15歳になるスアードと18歳になるナスリンの二人の娘を家政婦の仕事をしながら養い育ててきた。娘たちにはアラビア語で話し、彼女たちはフランス語で答える。次女は反抗期でファティマにたてつく、医学部に入った長女は勉強の重圧でストレスを溜めている。精一杯二人を見守り励まし、時に衝突するファティマ、彼女にとって二人の成長こそが全てなのだ。しかし彼女自身にもストレスはある。フラストレーションを感じる時もある。そんな時、彼女はノートを開き、心情を散文や詩に託してアラビア語で綴る。慎ましい存在ながら信念を持ち、自己犠牲に甘んじるわけでもないファティマのような人を、”美しい人”だと私は思う。これといったドラマが起きるわけでなく、淡々とファティマの毎日を追う映画、その何気ないラストにぐっときた。何でもないことに感動した経験は過去にもある。特別な人ではない普通の人の何でもない行為に感動させらる時は、そこに人生の意味のようなものを感じるからだ。
この映画はファティマ・エラユービの著書『Prière à la lune/月に祈る』と『Enfin, je peux marcher seule/ ついに私はひとりで歩ける』からインスピレーションを得ている。先日、シネマテークで開かれた上映会には著者も登壇しアラビア語訛りの立派なフランス語でスピーチした。そんな彼女の実直さにも感動した。映画の中のファティマを演じたソリア・ゼルーアルは素人、娘役の二人は無名の新人女優。「様々なシチューエーションにおいて、演じる人と、その人が演じる人物が出会う地点を探すのが仕事だ」と監督は言う。その結実がフォーコン監督の作品だ。シネマテークで10月25日まで、彼のレトロスペクティヴが開かれている。是非この機会に地味な監督の珠玉の映画に触れて欲しい。
最後に、蛇足になりますが、フランス語で充分に自己表現できないもどかしさは、我々在仏日本人にもある問題ですね。(吉)