『レ・ミゼラブル』(1862年)の冒頭で、元犯罪人であるジャン・ヴァルジャンの人生を変えてしまう人物として登場するのがミリエル司教だ。「定収入、邸宅、馬車、従僕、珍膳(ちんぜん)、あらゆる生活の楽しみ」を持つ立場の「法衣の役人」であるこの司教だが、その生活はあくまでもつつましく、その食卓にのぼるのは「裸麦のパン」と呼ばれる黒パンだ。(引用は豊島与志雄訳)。
今でこそ黒パンは健康志向の現代人に栄養価が高いと人気だけれど、当時は白パンを食べるのは貴族などの富裕層だけで、黒パンはもっぱら庶民が口にするものだった。それが変わるきっかけになったのはフランス革命。「すべての人が同じパンを食べるべき」と、それまでの丸い白パン、黒パンに代わって細長く真ん中にスッスッといくつか切込みが入った「平等のパン」が生まれたという。先史時代から人間の食生活を支えてきたパンの歴史をたどることは、それぞれの時代背景や政治、宗教を理解する手がかりになる。
『レ・ミゼラブル』で登場人物たちが相変わらず黒パンを食べているところや、革命後の恐怖政治時代を追う小説『93年』(1874年)に出てくる、そば粉や栗を使ったパンの描写からも、革命が掲げた理想はなかなか社会に浸透しなかったことがうかがえる。
決してグルメではないユゴーだったけれど、詩集『街と森の歌』では、夕暮れ時に小麦の種をまく老人の様子を優しく謳いあげている。パン・オ・ショコラやパン・オ・レザンを当たり前のように食べ、全粒粉やライ麦パンをありがたがり、海草やらそば粉の入った変り種のパンがあればくまなく試すような現代のグルメたち、そしてその一方でゴミ箱から固くなったパンを取り出す浮浪者たちの姿は、ユゴーの目にどう映るのだろう。(さ)