【日高暢子夫人 逝去のお知らせ】
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【日高暢子夫人 逝去のお知らせ】
日高暢子さんは、長年パリ郊外で夫の日高六郎氏と暮らした後、2008年後半にフランスを去り、京都市で暮らしていました。
2011年に夫婦で老人ホームに移り、2018年6月に六郎氏が老衰のため101歳で亡くなった後も、夫人は一人で住んでいました。
フランスでは、オヴニーやエスパス・ジャポンの方々とも交流があり、90年代にはエスパス・ジャポンで自分の絵の展覧会をしたり、クリスマスのフェットなどにも来ていました。フランスでは「マダム・ヒダカ」や「のぶこさん」として、さまざまな方とお付き合いがありました。日本に戻ってからも、京都で展覧会を開いたり、訪ねてきた人と何時間も話し続けていました。コロナ禍の頃からは耳も遠くなったり、フランスのことも忘れていることがありましたが、人が訪ねてくると嬉しそうでした。
2024年10月7日早朝、入院先の京都の病院で静かに旅立たれました。95歳でした。親しかった人たちが集った10月9日の葬儀では、最後にバッハのシャコンヌが献奏されました。
樫尾岳
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【日高暢子夫人 逝去のお知らせ】 |
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【日高暢子夫人 逝去のお知らせ】
日高暢子さんは、長年パリ郊外で夫の日高六郎氏と暮らした後、2008年後半にフランスを去り、京都市で暮らしていました。
2011年に夫婦で老人ホームに移り、2018年6月に六郎氏が老衰のため101歳で亡くなった後も、夫人は一人で住んでいました。
フランスでは、オヴニーやエスパス・ジャポンの方々とも交流があり、90年代にはエスパス・ジャポンで自分の絵の展覧会をしたり、クリスマスのフェットなどにも来ていました。フランスでは「マダム・ヒダカ」や「のぶこさん」として、さまざまな方とお付き合いがありました。日本に戻ってからも、京都で展覧会を開いたり、訪ねてきた人と何時間も話し続けていました。コロナ禍の頃からは耳も遠くなったり、フランスのことも忘れていることがありましたが、人が訪ねてくると嬉しそうでした。
2024年10月7日早朝、入院先の京都の病院で静かに旅立たれました。95歳でした。親しかった人たちが集った10月9日の葬儀では、最後にバッハのシャコンヌが献奏されました。
樫尾岳