Immigrations est & sud-est asiatiques depuis 1860
フランスにいると様々なアジア人と出会う。彼らはいつから、どうしてここにいるのか。在仏日本人の移動状況はある程度把握していても、国が違うとわからない。フランスでは、各国の違いを踏まえつつアジアからの移民の全体像が研究などのテーマとして取り上げられることはほとんどなかったというから、当事者である私たちが知らなかったのも無理はない。ここで扱うのは中国、ベトナム、朝鮮半島、日本、フィリピン、タイ、ラオス、カンボジアからの移民で、フランスの移民人口の6%を占めている。日本人は移民人口の0.3%だ。
題名の 「1860年」は、英仏と清が戦ったアロー戦争(第2次アヘン戦争)が終わった年だ。負けた清は通商を強いられ、自国民に渡航を許可した。日本も同じ頃、やはり列強の圧力を受けて開国した。フランスはインドシナに出兵し、この半島の植民地化を進めた。このように、フランスとアジアの関係が大きく変わった年なのだ。
日本は1862年、英仏などと結んだ不平等条約の緩和交渉のため、文久遣欧使節団を欧州に送り込んだ。フランス到着後撮影された3人の日本人男性の写真には吏員、画家、医師の肩書きがついている。その後パリでは万博が開催され、日本の美術品が高く評価された。出品された漆、日本画、陶器などは今見ても超一流の品だ。1878年の万博の時、通訳として来仏した林忠正はその後パリで日本の品の店を開き、ジャポニズムの普及に大きく貢献した。
奴隷制が禁止された1848年以降、仏植民地には、奴隷に代わり、「自由民」として中国、日本などアジアから出稼ぎが来ていた。その中の「からゆきさん」数人が着物を着て、インドシナの写真葉書に残っている。
そして第一次世界大戦。仏植民地のアフリカ人兵士は 「セネガル狙撃兵」と呼ばれるが、そのアジア版があった。インドシナから4万3千人の兵士が召集されたのだ。動員されたインドシナの労働者は4万9千人、中国人は14万人。戦後、彼らの一部がフランス本土に残り、アジア人社会を形成した。
第2次世界大戦の時も同様で、戦争をきっかけに移民人口が増えていった。インドシナ戦争の後は仏軍雇いの現地人やフランス人と現地女性の間にできた子供がフランスに移住。1975年以降は、新しい政治体制のもとで迫害を恐れるベトナム人、ラオス人、カンボジア人が「ボートピープル」と呼ばれる難民となった。サルトルら知識人が支持し、マスコミが大きく扱ったことが受け入れ態勢整備につながった。市民団体が公的機関と協力し、13万人を受け入れた。フランスに移住したアジア人には学生、アーティスト、知識人もおり、ホーチミン、鄧小平など、のちに政治家となる大物も滞在していた。
アジア移民は 「おとなしい」、「模範移民」といったステレオタイプの見方で見られることが多い。偏見や差別も受ける。会場の終わりでは、体験談や、偏見をなくすための移民側からの提案をビデオと写真で見せている。この博物館ならではの教育的な視点が嬉しい。(羽)2/18まで。
中国からやってきた前衛美術家10人展
「私には家族がある J’ai une famille」
アジアからの移民の歴史の展覧会と並行して、同じ移民博物館内では秀逸の現代アート作品を紹介している。1980〜90年にフランスに移住した中国人の前衛美術家10人は、祖国と全く違うフランス社会で、家族に似た連帯を持ち続けた。彼らの代表作を一同に集めた展覧会。
Huang-Yong Ping (黄永 砅) はライオンに乗り、プラトンの中国語訳を読む自分を彫刻に。渡仏してメディアの自由があることに驚いた Wang Du (王度)は、読まれた後に丸めて捨てられたル・モンドを彫刻にした。各人がフランスとの関わりを語っている。(羽)2/18まで。
Musée nationale de l'histoire de l'immigration : Palais de la Porte Dorée
Adresse : 293 av. Daumesnil, 75012 Parisアクセス : M°Porte Dorée
URL : https://www.histoire-immigration.fr/programmation/expositions/immigrations-est-et-sud-est-asiatiques-depuis-1860
月休、火〜金:10h-17h30/土日:10h-19h。10€/7€(26歳未満無料)。