幻視の建築家、クロード=ニコラ・ルドゥ。
1736年、シャンパーニュ地方のドルマンという町で生まれたクロード=ニコラ・ルドゥは、幼いころから描画の才能を表し、版画職人のアトリエで修行。その後、百科全書の建築項目の執筆で有名なジャック=フランソワ・ブロンデルの私塾で建築術を学んだ。当時フランスの著名建築家は王立建築アカデミー出身者で占められており、そうでない者が王国の公共建築を設計することはまず不可能だった。しかしルドゥは、有名建築家の下での実務を通して貴族層への人脈を得、少しずつ彼らの邸宅の設計などを任されるようになる。
なかでもルイ15世の最後の寵姫デュ・バリー夫人との出会いは彼のキャリアを大きく飛躍させた。彼女のルーヴシエンヌにある別邸Pavillon de Musiqueの設計を機に、1771年にはルイ15世からフランシュ=コンテ地方の製塩所監視官に任命され、73年には王立建築アカデミー会員にも選出された。そしてこの年決定されたアルケスナン王立製塩所の設計を任されるのだ。
王室付きの建築家となり、キャリアの絶頂を迎えたルドゥは王の重要な収入源となるアルケスナン製塩所の建設を成功させた後、徴税事務局の建築家としても活躍する。パリ市内への密輸を取り締まり、厳格な徴税を行うための徴税市門(Barrières de Paris)のために、様々なタイプの市門を設計した。このプロジェクトは多様な設計や造形を試す絶好の機会となり、純粋幾何学形と新古典主義を独自に組み合わせた50棟が1785年から88年の間に建設された。しかしこれらの市門はまた、重税に苦しむ市民から憎むべき王制の象徴とされ、革命時、真っ先に破壊の対象となった。現在パリでは3ヵ所に残るのみだが、ラ・ヴィレットのサンマルタン市門とモンソー公園のシャルトル市門は幾何学形と古典主義モチーフを顕著にみることができる。
革命によって旧体制への協力をとがめられたルドゥは処刑は免れたものの2年間幽閉され、建築家としての全ての地位と職を失い、余生を執筆と版画作成にあて自身の建築論の集大成を試みた。そうして出版された 『建築論』には、当時の技術では到底実現不可能な球体の建築やピラミッド型の建物など、それまでは考えられなかった大胆な幾何学的な形の作品が多数収められている(下の画像)。
ルドゥは 「ビジョネール (幻視)建築家」と呼ばれるが、それはそのような未完の作品によるところが大きい (図3、4)。また同著のなかでアルケスナンの理想都市構想をさらに発展させた。
激動の時代のなか、啓蒙主義、合理主義など旧来の社会秩序を覆す価値観にも共鳴し、建築を通して社会改革を考えたルドゥは、その後の近代建築へとつながる流れを作り、1806年、その生涯を閉じた。「…すべてが建築家の管轄の下に置かれる…政治、道徳、法制、宗教、政体…」という彼の建築論の一文に、ルドゥの建築家としてのありかたを垣間見ることができる。
Saline Royale d'Arc-et-Senans
Adresse : Grande rue, 25610 Arc et Senans , FranceTEL : 03.8154.4500
アクセス : sncf Arc-et-Senans から徒歩3分
URL : http://www.salineroyale.com
季節によって開館時間が違うので要確認