人口は2万5千人ほど。さほど広くないヴィシーの町には、様々なスタイルの美しい建築物がひしめきあっている。セヴィニェ夫人、ルイ15世の娘アデライドとヴィクトワール、デュマ、ドラクロア、シャトーブリアン…多くの名士が湯治に訪れたという町は、皇帝ナポレオン3世が温泉保養地として整備をすすめたことで脚光を浴びた。1900年頃には年間4万人、第1次大戦前は11万人の湯治客が訪れるようになった。30年代に黄金時代を迎えたが、その期間を通じて国内外からやって来る湯治客をもてなすために整備されたホテルや湯治施設、余興設備などが、今も異彩を放っている。
ヴィシーはこの夏、ドイツ、オーストリア、ベルギー、イタリア、イギリス、チェコの10都市とともに「偉大な温泉郷」としてユネスコの世界文化遺産に登録された。それらの都市に共通するのは1700年頃から1930年代にかけて築かれた温泉文化を継承する都市であること。「水の都の王妃」と異名をとったヴィシーには今も年間2万人の湯治客が訪れる。行ってみれば気取った雰囲気はなく、コップを持った人たちがお湯を飲みに公共の温泉水ホールに行ったり、温泉につかっていたり…。日常的に温泉文化が息づく町で、フランス式湯治を体験してみた。
協力:オーヴェルニュ・ローヌ・アルプ地方観光局
Auvergne Rhône-Alpes Tourism
www.auvergnerhonealpes-tourisme.com
国鉄ヴィシー駅から放射状に 「パリ通り」と、「ドゥメール大統領大通り」が延びている。この道をまっすぐゆけば 「温泉地区 Quartier thermal」とアリエ川にたどり着く。ゆっくり歩いても、10〜15分程度の距離だ。
ヴィシーの温泉は、紀元前、ローマ人によって発見されたものだが、17世紀には書簡作家セヴィニェ夫人も手と膝のリューマチ治療に訪れた。夫人は、水の味や治療はおぞましいが (入浴ではなく熱した布で身体を包んで治療した)効果は魔法のよう、と娘への手紙にしたためた。その後も、ルイ15世の愛娘ふたりや、ナポレオン・ボナパルトの母レティツィアが1812年、12人の子を出産した後で湯治に訪れている。彼女はヴィシーが広い湿原だったのを見て、ロシア遠征に向かう息子に湿地帯を干拓する政令を出させ、温泉地区の中心に 「スルス公園 Parc des Sources」を整備させた (写真下)。
そんな、すでに〈セレブな温泉リゾート〉だったヴィシーだが、ナポレオン3世が1861年に訪れてから黄金時代を迎える。皇帝はドイツのバーデンバーデンやベルギーのスパのような温泉地をモデルにしつつ、それらに負けない、近代的で美しい温泉郷へとヴィシーを変貌させるのだ。
まずは鉄道。線路はパリからヴィシー近くのサン・ジェルマン・デフォッセまで延びていたが馬車に乗り換えねばならなかった。それをヴィシーまで延ばし、駅舎を建てた。そして駅から中心街へと目抜き通りをのばす。アリエ川は氾濫することも多かったので堤防を造り、川沿いにイギリス式の公園を造るなど、オスマン=セーヌ県知事が行った〈パリ大改造〉ばりの都市計画をヴィシーでも推し進めた。当時の湯治は早朝に始まり昼前に終わり、それが3週間続いたというから、余興も必要だ。800席のインペリアル劇場と舞踏会のための大広間、談話サロン、読書室を備えたカジノ (上の写真)。おいしい食事処、菓子屋、アリエ川対岸に競馬場…。
「ヴィシーが他のどこよりも好きだ。すべて私が創ったものだから」とご満悦だった皇帝は、新しく建立するサン・ルイ教会のステンドグラスの聖人の顔を、自分と母オルタンス、妻ウジェニーの顔に似させたりもした。公園の一角には、スイスのシャレー風の別荘 (次ページに写真)を建てる。皇妃ウジェニーのシャレーも隣に造ったが、彼女は皇帝の愛人と鉢合わせになるのを嫌がってヴィシーには一度しか来なかった。
資産家たちはヴィシーに土地を買い瀟洒な館を建て、家具付きで湯治客に貸し出した(次ページに)。皇帝の没後も、シャルル・ル=クール設計のオペラ座や、雨天でも散歩ができる、屋根付きの遊歩道が整備されていった。高級ホテルも続々と誕生。ホテルによってはパリのリッツよりも宿泊費が高かったといわれる。それらの立派な建物は、今では多くが住宅になっている。
しかし数ある温泉地のなかから、なぜナポレオン3世はヴィシーを選んだのか。それまでロレーヌ地方のプロンビエール温泉に通っていた皇帝に、効果がないとヴィシーに変えさせたのは、皇帝主治医のアルキエ医師だ。今日、これは誤診だったと言われている。皇帝は2.5cmもの胆石持ちで、ヴィシーのミネラル分を多く含む水はよくなかったからだ。誤診の陰には、近くに城を持っていた皇帝の異父弟モルニー伯爵らが陰で糸を引いていたともいわれる。とはいえ、皇帝が来ていなければ、このような形での町の発展もなかったのだから、皇帝には申し訳ないけれど、誤診万歳、なのだ。(集)