〜 ナポレオン3世の失脚から、パリ・コミューヌまで 〜
世界初の労働者政権「パリ・コミューヌ」樹立から今年は150周年。第二帝政の終焉からコミューヌ内戦まで、パリの街を歩きながらたどる連載。
プロシア軍のパリ包囲は続いていた。
1871年2月、戦時下の国民議会選挙によりティエールが政府・行政長官に。厭戦気分漂うブルジョワ層と地方の土地所有者、農民層をバックに、屈辱的な講和条件をのんでも「和平」を実現させたい政府と、まともに戦えば充分にやれると信ずる抗戦派民衆の間にうがたれた溝は決定的なものとなる。
2月26日の講和予備条約調印でアルザス、ロレーヌの割譲と多額の賠償金受け入れ。 3月1日プロシア軍のパリ入城、「戦勝」国のパフォーマンス。3月10日には国民議会のヴェルサイユ移転を決定。
民衆の思いを逆撫でするかのように事を運ぶと、ティエールはさらにパリ市民を打ち砕くための強硬策を決意、3月18日を迎える。
この日未明、政府正規軍は国民軍の大砲保管所を急襲。パリ市包囲中のプロシア軍にとって脅威とうつる大砲を撤去し「和平」を揺るぎないものに。同時に抗戦派民衆の力の拠り所、志願兵からなる国民軍を無力化して武装解除を。それが狙いだった。
重要な拠点モンマルトルの丘の陣地から、住民の寝静まった頃合を見計らい大砲を引いて降りようとした政府軍の動きは、しかしここで察知され太鼓が打ち鳴らされる。飛び起きた人びとは家から走り出る。それこそエプロン姿のおかみさんから、洟水たらした子どもにいたるまで、「市民の大砲」を奪い取ろうとする軍隊を取り囲む。
包囲下の深刻な物資不足、寒さと飢えに耐えてきた住民は衝き動かされたように次々と街に出る。街路にあふれんばかりの人びとから「共和国万歳!」の叫びが起こるや、政府軍の兵士のうちからその叫びに応えて自ら隊列を離れ、国民軍に合流する者も現れる。‥‥となれば勝負はあった。
指揮する将軍は孤立し、民衆にとらわれる。
歴史の歯車は思わぬ方向でがっちり噛み合ってしまうときがある。捕らえた将軍の尋問をしているところに、もうひとり白髭の男が連行されてくる。クリシー大通りで民衆に混じり、じっと様子をうかがっていた平服の男は見とがめられシラを切るが、1848年の民衆蜂起の際にも弾圧と虐殺の先頭に立った「民衆の敵」、将軍クレマン・トマであると見破られたのだった。
こうなると民衆の怒りに歯止めはきかない。将軍ふたりを引きずり出すと銃弾の餌食にしてしまう。民衆による政府軍将軍の処刑、この事実は重い。
事件の報が伝わるや、それに呼応してパリの街の辻々で市民は蜂起、混乱をきたした政府軍は反撃の態勢を取ることすらできない。予期せぬ事態の推移にあわてたのはティエールそのひと、取るものも取りあえずパリから脱出、まずはヴェルサイユに落ち着いて再起を図ることを即座に決める。73歳の政治家の決断力と対応の速さに舌を巻くと同時に、七月王政期に宰相を務めるなどキャリアに富んだ「古ダヌキ」をこれほどまでに動かした恐怖、パリの民衆の底力をまざまざと思い知らされる。
権力に空白の生まれた状況で国民軍中央委はコミューヌ議会(パリ市議会)の選挙を呼びかけ、政府側の妨害工作をはねのけ実施に漕ぎつける。3月28日には市庁舎前広場で正式にパリ・コミューヌの成立を宣言。ここに史上初の労働者政権、自治体・政府が誕生する。
歴史の流れのなかで、ぽっかり広がった72日間の祝祭空間。そう評されることの多いコミューヌとは何だったのか。
しょせん自然発生的な民衆蜂起の延長でしかなかった。そういう見方もある。明確な目標や目的意識を持つだけの準備もなく始まり、寄り合い所帯の議論をまとめあげるだけの時間も機関も持たなかった。
しかし、社会を支え日々の暮らしを営む者たちにより、みずからの生きる世界に向け、これほど豊かな問いかけのなされたことがあっただろうか。共和政体の徹底と行政の民主化、政教分離、無償の義務教育、労働環境の見直し、社会保障、コミューヌ(地方自治体)と中央政府の関係‥‥生活
に根付いた問いかけは男女の性差を超えて発せられ、外国人にも「市民」感覚は開かれ共有されていた。
一面的な視点と思考では捉えきれるはずもない混沌の72日間は、だからこそ「祝祭」と呼ばれるにふさわしい。祝祭に身をほどき感受性を開くとき、いくらかなりと彼らの声が聞こえてくる気がする。(つづく)
おおしま伸 (おおしま・しん)
〈遊歩舎 ー懐かしさの首府パリ、記憶を旅するー〉を、大島ちえこさんと主宰し、パリの暮らしや、歴史、散策などをテーマにしたエッセイを発表。著書に、19世紀末パリを舞台に新聞記者エドモンの活躍する小説『黄昏はゆるやかに』シリーズ全5巻などがある。yuhosha.com