〜 ナポレオン3世の失脚から、パリ・コミューヌまで 〜
世界初の労働者政権「パリ・コミューヌ」樹立から今年は150周年。第二帝政の終焉からコミューヌ内戦まで、パリの街を歩きながらたどる連載。
産声(うぶごえ)をあげた、そもそもその日からコミューヌに危うさはつきまとっていた。
ヴェルサイユに逃げのびるや、ティエール政府はただちにパリ市民への反撃に着手する。ビスマルクと交渉を重ね、プロシア軍の捕虜になっていたマクマオン元帥はじめ正規軍大部隊を取り戻したのは4月上旬。この段階ですでに兵力的には圧倒的な優位に立った。
コミューヌとヴェルサイユ政府、両者の間に入って交渉と和解の機会を作ろうとの働きかけもあった。しかし、ティエールに交渉、和解の選択肢ははじめからない。問答無用。パリ市を根こそぎ粉砕する。この意思は固かった。
じわじわと城壁外側の拠点を手中に収めた政府軍は1871年5月21日日曜日、パリ南西部サン・クルー門からパリ市内に入り込む。満を持して攻め込んできたプロフェッショナルの軍勢が本気を発揮したとき、素人の混成部隊では歯が立つはずもない。初夏の陽光に隘れる美しい季節は28日、最後の抵抗の銃砲が撃ち熄(や)むまで「血の週間」と呼ばれる一週間となった。
街の随所に築かれたバリケードを撃ち破ると、戦闘要員だけでなく老若男女問わず手当たり次第に殺害、火を放つ。南西部から中央部へ、さらに「叛徒」を北東部へと追い詰めていく。3月18日の事件、熱狂のまま民衆が2人の将軍を処刑したことに対する報復だと正当化するには、あ まりに度を越している。なにしろフランス大革命期10年間での全国の死者より、このときパリで命絶えた者の方が多かったと言われるほどなのだ。
仮にも国家がその構成員である市民に、ここまで残虐になれるものだろうか。そう問わずにはいられない。……まつろわぬ自国民に対してこそ権力者たちはもっとも冷酷な素顔をあらわにする。それが歴史の教える厳粛な事実であると分かっているつもりでも。
やらなければ、こちらがやられる。恐怖の裏返し、それはまず根底にあるだろう。パリからの逃亡を余儀なくされた、奪われた誇りに対する強烈な復讐心もあっただろう。プロシア相手の戦争で、戦わずして捕虜になったプロフェッショナルたちの、戦い抜いてきた市民に向けた後ろめたさの表出でもあっただろう。地方から徴兵された政府軍兵士たちは、パリに対する反感が強かったという説もある。そしてなにより歯向かう者へ抱く支配者の憎悪……。
コミューヌの兵士たちが最後に立て籠もったのは東部丘陵地帯、19世紀はじめに霊園として開放されたペール・ラシェーズだった。起伏に富む広大な地にはショパン、バルザックはじめ多くの著名人が眠り、眠る彼らの墓標を縫うように絶望的な白兵戦が繰り広げられた。捕らえられたコミューヌ兵147名が次々に銃殺されていったと伝えられる丘陵上部東端の壁には、現在大きくプレートが掲げられ毎年花束が供えられる。
時あたかも、さくらんぼの実る頃。今にいたるも歌い継がれるシャンソンのスタンダードナンバー「さくらんぼの実る頃」は、この内戦を背景にしている。
決して癒やされることのない疵(きず)……記憶にとどめ……さくらんぼの季節をいとおしむ……。直接的に戦闘を表す言葉のない歌詞に込められた、喪失と愛惜の深さに胸打たれる。
作詞者ジャン=バティスト・クレマンはコミューヌの18区区長として戦った「生き残り」、コミューヌの壁に向き合うように眠っている。
おおしま伸 (おおしま・しん)
〈遊歩舎 ー懐かしさの首府パリ、記憶を旅するー〉を、大島ちえこさんと主宰し、パリの暮らしや、歴史、散策などをテーマにしたエッセイを発表。著書に、19世紀末パリを舞台に新聞記者エドモンの活躍する小説『黄昏はゆるやかに』シリーズ全5巻などがある。yuhosha.com