1925年、シャンゼリゼ劇場がアメリカから黒人アーティストを呼び寄せて上演した「Revue Nègre」。粋なジャズとダンスのショーにパリジャンは熱狂した。とりわけ人々を夢中にさせ、瞬く間に大スターになったのは19歳のダンサー、ジョセフィン・ベイカーだった。
今年11月30日、パンテオンにジョセフィン・ベイカーが祀られることになった。1937年に彼女がフランス国籍を取得した日にあたる。女性では6人目、黒人女性では初めての偉人廟入りだ。
人種差別が激しいアメリカから居を移したフランスで、褐色の肌に求められていたのが植民地主義に基づくエキゾティシズムだったことは自覚していたが、才能と魅力を引き出し「自分をつくってくれた」フランスを心から愛していた。戦時中はレジスタンス闘士としてフランスのために戦い、戦後は公演で訪れた国々で12人の孤児を養子に迎え、家庭を築いた。その舞台となったのは自然豊かなドルドーニュ地方にある15世紀の城、ミランド城。人種・文化が違っても人間は共存できるという信念を示し、世界市民としての理想を実現させる場だった。
このパンテオン入りを機に、彼女の生き方があらためて思い起こされ、今の世界に生きる人々の心の道標になってくれないだろうか。(仙)
ジョセフィンはなぜパンテオンに入るのか?
跳ね回る細長い手足、底抜けの笑顔、のびやかな歌声。アメリカから流れ星のようにやってきて「Les années folles/狂乱の時代」1920年代のパリの人々を虜にしたジョセフィン・ベイカーは、独特な魅力と非凡なセンスのあるエンターテイナーだった。でも、なぜ彼女がパンテオンに?
圧倒的なエンターテイナー。
1906年ミズーリ州セントルイス。貧しい黒人の母と白人の父の間の混血として、フリーダ=ジョセフィン・マクドナルドは生まれる。父の素性は確かではない。少女期は白人家庭に女中奉公。ダンスと音楽に夢中な女の子は巡業中のカンパニーに飛び込みで雇ってもらい、13歳で家出同然に故郷を去った。
各地を巡業中、ニューヨークの公演で、パリ・シャンゼリゼ劇場で上演予定の 「Revue Nègre/ニグロ・レビュー」と銘打ったショーのメンバーとしてスカウトされ、1925年、25人の仲間と海を渡った。ジャズが流行していたパリでNYの選り抜きの黒人ミュージシャンとダンサーたちは大人気。なかでも弾けるようなジョセフィンのダンスにパリジャンは夢中になった。
無邪気な男の子のような滑稽な動きを見せるかと思えば、腰蓑ひとつで艶やかな美しい肢体を見せる。おもちゃ箱をひっくり返したような驚き、圧倒的なパフォーマンス。下品と非難する人がいる一方で、ピカソ、マン・レイ、コクトーたち前衛芸術家たちもこぞって絶賛した。
彼女の舞台姿を今見ると、時に信じがたいような差別的な役回りを演じさせられている。当時フランスは英国に次ぐ植民大国で、政府は頻繁に植民地展覧会を催し、植民地から運ばれた品々、果ては現地人までを展示して人気を博していた。珍しいものを求める人々の趣向にジョセフィンは「オブジェ」として最適だったのだろうが、のちに「私はパリが必要としていた野性のアイドルだった」と語っていることから、彼女の方が一枚上手のエンターテイナーだったのだろう。
生涯何度も生死をさまよう重病を患ったが、強い生命力で復活し、周囲をびっくりさせた。その原動力は、観客の前で歌い、踊ること。最後の舞台は1975年4月9日、パリ14区、ボビノ座だ。8日に始まったフランスデビュー50周年の公演2日目を無事に終え、パリのアパルトマンのベッドで意識不明の状態で見つかり、病院で亡くなった。68歳だった。
アメリカとフランス、ふたつの故郷|差別との戦い。
歌手としても高い評価を得ていたが、特に 「ふたつの恋」は大ヒット。「恋しいものがふたつある。わたしの故郷、そしてパリ…」。瞬く間に国際的大スターになったジョセフィンは、アメリカには帰らず、パリに腰を落ち着けた。フランスに来てまず驚いたのはレストランへ行っても差別がなかったことだったという。アメリカでは1960年代まで人種隔離が普通に行われていた。
1950年、マイアミの高級クラブ 「コパシティ」から公演の依頼がきた。黒人禁止と知っていたジョセフィンは、「誰でも入ることができる」という一文を契約書に書かせたが、初日は報復を恐れ、黒人客は1人も来なかった。しかしこの噂を聞きつけた大勢の黒人白人が公演に押し寄せ、2日目はジョセフィンの人生で初めて、会場で人種の壁が外された。この5月20日を、全国有色人種進歩協会は 「ジョセフィン・ベイカーの日」と名付けている。
1951年、NYの高級クラブ「ストーククラブ」でオーダーした食事を給仕されず、怒ったジョセフィンは裁判所に訴えた。ところが翌日の新聞、ラジオ、テレビからは反対にバッシングされ、殺害脅迫まで受けた。これが元で公演は中断されてしまった。この日、モナコ公妃になる前のグレース・ケリーが事の次第を目撃しており、のちに公妃の立場からジョセフィンを援助することになる。
あらゆる不正と戦おうと、精力的に反差別団体を支援している。フランスでは1953年LICA(人種差別・反ユダヤ主義に反対する国際同盟/後のLICRA)の集会で、1963年は人種差別の撤廃を求める「ワシントン大行進」でもスピーチをした。
第二次世界大戦、レジスタンス活動。
1939年、第二次世界大戦が勃発すると軍諜報部は、ジョセフィンに接触。人気スターの立場を活用して敵の情報を収集、または極秘情報を運ぶ「名誉通信員」に任命した。情報は特殊なインクで楽譜に書き込まれたり、下着に隠して運んだという。パリ陥落後もしばらくは自分のクラブ 「シェ・ジョゼフィーヌ」で客から情報を収集していたが、身の危険を察知して別荘として借りていたミランド城へ脱出した。その後はド・ゴール率いる自由フランス軍からの指令で、南米、北アフリカなどを巡業を装って移動しつつ情報を集めた。モロッコで収集した情報はドイツのモロッコ侵攻を堰き止めたともいわれる。パリ解放の年にはその功績が讃えられ、少尉の階級が授けられた。1946年にレジスタンス勲章、1961年にレジオン・ドヌール勲章も授与されている。
4度の結婚と恋
ジョセフィンは16歳までに2度の結婚をした。2度目の結婚でベイカー姓を名乗るようになる。フランスの最初の恋人は「Revue Nègre」のポスターを描いたポール・コラン。イタリア人のジュゼッペ・アバティーノ(通称ペピート)は、恋人でありながら洒落た演目を考案し、好条件で契約を取る敏腕マネージャー、プローデューサーだった。3度目は4歳年下の裕福な砂糖仲介人ジャン・リオン。1937年11月30日、彼との結婚でフランス国籍を取得。家庭に落ち着いてもらいたかったジャンとは反りが合わずに1年で破局。最後の結婚はオーケストラ指揮者ジョー・ブイヨン。1944年パリ解放後の慰問巡業で一緒に巡業し、愛と信頼を築き、1947年に結婚した。ジョセフィンを尊敬し、その思想に共感し、12人の子供のよき父であり、ミランド城の経営責任者だった。経営破綻の可能性を忠告するが聞き入られず1960年に別居。しかし生涯相談役であり続けた。
ミランド城、理想の村を作る夢。
1937年、ドルドーニュ地方の豊かな自然に魅せられ、ジョセフィンは廃墟同然だったミランド城を別荘として借りる。1489年に築城された歴史のある古城だ。
パリが占領されてからはここが住まいに。戦後、指揮者ジョー・ブイヨンと結婚した1947年に城を購入。負債が膨れて返済しきれず追い出される1968年までの約20年間、ジョセフィンにとって何にも替えがたい場所だった。
住居部分だけを修復するのではなく、周辺の道路、水道、電気を整備して地域の生活レベルを上げ、観光のための宿泊、娯楽施設などを作って雇用を創出するなど、持続可能な経済モデルを作った。現在この地域が観光地なのはミランド城の存在があったからこそ。一時は70人が働き、ジョセフィンが野外劇場で歌い、訪問客を迎え、時には差別問題の講演会を開催して参加者と議論を交わした。
どんな子供たちにも平等にチャンスを与え、人種や文化が違っても共存できることを証明するために、世界の国々から孤児12人を養子に迎え育てたのもこの城だ。また、差別なき未来のためには若い世代が様々な人種、文化に触れ、理解し合うことが大切だと、世界から若者を招いて共に過ごせるよう敷地内に「藁葺き小屋の村」を作った。
しかし、次々と計画されるプロジェクトのための工事、際限なく続く古城の修復費などで債務が膨れ上がり、その穴を埋めるためにジョセフィンがどれだけ働いてもまかないきれず、ブリジット・バルドーの呼びかけで集められた募金も焼け石に水、1968年に追い出されてしまう。
2001年に現オーナー夫妻が城を購入、管理を任された娘のアンジェリークさんが見事に城を蘇らせた。城内はジョセフィン一家が暮らした様子が再現されている。展示された舞台衣装の中にはあのバナナの腰巻も。ランヴァンとディオールのお気に入りの香水瓶にあわせて内装を施した2つのバスルームはいかにもジョセフィンらしい。子どもたちの声が聞こえてきそうな小さなベッドが並ぶ子供部屋。ジョセフィンの寝室はその隣にある。印象的なのは家族みんなが食事をした大きな台所だ。子供たちに物の名前を教えるために特注で作ったイラストが描かれたタイルにはたくさんの愛がこもっている。そしてここはジョセフィンが最後まで立てこもっていた場所で、この部屋の扉から追い出されてしまったのだ。
城の立て直しに疲れたジョーは去っていったが、城を追われたジョセフィン一家は、幸いなことにモナコのグレース公妃の計らいで、モナコに隣接するロックブリューヌに住むことできた。
INFORMATIONS
Château des Milandes:
24250 Castelnaud-la-Chapelle
Tél.05.5359.3121
17歳以上:12.50€/5〜16歳:8€ / 5歳未満無料。オーディオガイド無料。
12/25、1/1休館。
10月:9h30-18h30
11月1〜11日:10-18h
営業時間は月日によって変わるので確認:
www.milandes.com
パリからはオーステルリッツ駅から直通Souillac駅 (5時間前後)。同駅から車で40分ほど。Sarlat-La-Canéda駅からなら16kmほど(パリから直行はなし)。
「虹の一族」12人の子供たち
差別との戦いはジョセフィンにとって最も重要なテーマだった。人間には人間という一つの人種しかないと証明するために、子供を産むことができないジョセフィンは、人種・文化の違う国から孤児を養子にして一つの屋根の下で育てようと決めた。
最初の子供は1954年に日本から来たアキオとジャノ。友人の元在パリ外交官夫人沢田美喜が設立した孤児院にいた子供だ。続いてフィンランドからヤリ。コロンビアからルイス。カナダからジャン=クロード。イスラエルからモイーズ。アルジェリアからブライムとマリアンヌ。コートジヴォワールからコフィ。ヴェネズエラからマラ。パリのアンドレ。モロッコのステリナ。
孤児だった子供たちを普通の家庭の子供と同じように愛し、心を砕き、育てた。「血は繋がっていなくてもひとつの家族になれることを世界に証明した。これが母の最高の業績だ」と、アキオ氏はいう。
フランスの偉人が眠る「パンテオン」とは。
パリ6区、聖ジュヌヴィエーヴの丘の上にそびえるパンテオンにはヴォルテール、ルソー、ユゴー、ゾラほか、1791年から今日までのフランスの偉人80人ほどが眠る。ここに誰を祀るかは大統領が権限を持つが、J・ベイカーの場合は彼女のパンテオン入りを望む署名運動がおこり、それが大統領に提出され決定された。署名は最終的に3万8千筆集まった。偉人廟に入る条件は、「共和国の精神を体現する」故人であること。故人家族の承諾も必要だ。大統領に手紙を書いて直接提案するのも一つの手だという。
Château des Milandes
Adresse : 24250 Castelnaud-la-Chapelle,TEL : 05.5359.3121
URL : https://www.milandes.com/
パリからはオーステルリッツ駅から直通Souillac駅 (5時間前後)。同駅から車で40分ほど。Sarlat-La-Canéda駅からなら16kmほど(パリから直行はなし)。