サンローランの伴侶、メセナを体現したピエール・ベルジェの死。

イヴ・サンローラン(中央左 )とピエール・ベルジェ。1958年12月19日、オペラ・ガルニエでのマリア・カラス初のリサイタル後。背後の鏡にはジャン・コクトーが映っている。サンローランがディオールのメゾンで初のコレクションを発表し、21歳のサンローランとベルジェが出会った年。© Droits Réservés

 去る9月8日に86歳で亡くなったピエール・ベルジェは、巧みな実業家であると同時に「メセナmécène」(文芸庇護者)として、半世紀以上にわたってフランスの文化シーンに大きな影響を与えた人物だった。ベルジェと出会わなかったら、モード界に旋風を起こしたイヴ・サンローランの存在はなかったし、1970年代後半からは演劇、オペラ、美術部門、そして新聞・雑誌などメディア界においても、ベルジェは重要な役割を担った。

 1930年、オレロン島(中部大西洋岸シャラント=マリティム県)に生まれたベルジェは、ラ・ロッシェルで過ごした少年時代から文学に傾倒した。17歳のとき、作家かジャーナリストになる夢を抱いて上京。パリに着いた日、シャンゼリゼ大通りを歩いていた彼の目の前に、人が降ってきた。二階の窓から歩道に転落したその人が、なんと詩人・作家のジャック・プレヴェールだったという驚くべき偶然から、ベルジェの並外れた人生の幕が上がる。

 古書関係の仕事を始めたベルジェはすぐに、コクトー、マッコルラン、アラゴン、ブルトンなど詩人・作家たちと親交を結び、ジャン・ジオノの秘書も務めた。1950年に画家のベルナール・ビュフェと恋に陥り、サンローランと出会うまでの8年間、ビュフェのキャリアを大きく発展させる。

 1958年、ディオールの後を継いだサンローランの最初のコレクションの4日後、ベルジェはその後半世紀のあいだ伴侶となる、この天才デザイナーと出会った。華々しくデビューしたサンローランはまもなく、アルジェリア戦争中の軍に徴兵され、鬱病になってディオール社から解雇される。ベルジェは自分のアパートを売り、アメリカ人の投資家を見つけて1961年にサンローランのメゾンを設立した。以後、サンローランのブランドは社会と経済の変遷を敏感に先取りし、プレタポルテ・香水・化粧品など多分野展開と国際化をとおして、モード界をリードする。その陰には、アルコールや麻薬中毒に陥った精神的に「壊れやすい」サンローランとその才能を常に支えた、ベルジェの深い愛情があった。

ボナパルト通りの自邸の庭で © Eric Jansen

 1977年にパリのアテネ劇場を買い取り(後に国に寄付)、演劇やコンサートの活性化に貢献したベルジェは、マルグリット・デュラス、ピーター・ブルック、ボブ・ウィルソンなど前衛の演出家をプロデュースし、パリ・オペラ座の総支配人も務めた(1988-93年)。また、ジャック・ラング元文化大臣を介して故ミッテラン大統領と知り合い、文学への情熱などをとおして深い友情で結ばれる。政治的に左派のベルジェは概して社会党を支持し、ミッテランとセゴレーヌ・ロワイヤルの大統領選に出資したが、1995年の大統領選ではシラクを応援した。

 若い頃から平和主義者だったベルジェには、トロカデロ広場でアピールをした際、アルベール・カミュと共に留置所に拘禁されたという逸話もある。本格的な政治面でのアンガージュマンは主に1990年代からで、エイズと闘う運動(シダクション創設、Act-Up支援)、ゲイ雑誌「テテュ」の財政支援や同性婚擁護などホモセクシュアルの権利、また反レイシズム運動の分野で貢献した。辛辣で断定的な物言いが、批判と大きな反感を呼び起こすことも頻繁にあったが、文化と政治の分野でもベルジェは大きな影響力をもっていた。

 1985年に月刊誌「グローブ」、1990年にニュース週刊誌「クーリエ・アンテルナショナル」の創設に出資した彼は、2010年にはマチュー・ピガス、グザヴィエ・ニールと共にル・モンド紙が属する「ラ・ヴィ=ル・モンド」グループのオーナーになった。同紙の記事を批判したベルジェに、編集部とジャーナリストたちが抗議したこともある。

 美術愛好家のベルジェは、サンローランと共に絵画、彫刻、家具や古美術を蒐集した。サンローラン死後の2009年2月、グラン・パレでの公開のあと競売されたこの豊かなコレクションは、大きな話題をよんだ。マチス、ブランクーシ、モンドリアン、デュシャン、クレーなどが売られた「世紀の競売」は総額3億7400万ユーロ近くをもたらし、一部はエイズ撲滅のためなどの医学研究に寄付された。ちなみに、この競売に出された清朝乾隆帝時代のブロンズ像2点は、アヘン戦争の際に英仏軍が円明園を破壊して略奪したものだったため、中国政府が抗議した(像は実業家ピノー家から2013年、中国に返還された)。

 サンローランが2002年に引退した後、ベルジェは「ピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団」を創設し、文化面でのメセナを積極的に続けた。コクトー、マッコルラン、ゾラなどが住んだ家を改修して博物館のオープンに貢献し、文学の分野では「12月賞」「マルグリット・デュラス賞」などをつくり、パレ・ド・トーキョーやケ・ブランリー博物館など国立ミュージアムへの援助も続けた。また、ベルジェとサンローランはモロッコを愛し、頻繁に滞在したが、マラケシュでは放置されていたマジョレル庭園を購入して修復し、そこにベルベル文化博物館を創設した。

 

マラケシュにもうじきオープンする美術館。
©2016 Studio KO Pierre Bergé Fondation Yves Saint Laurent

 このマジョレル庭園のすぐ近くに来たる10月17日、イヴ・サンローラン美術館が新たにオープンする。もうひとつのサンローラン美術館は10月3日、これまでも企画展が行なわれてきた財団の場所、パリ8区のマルソー通り5番地に開館する。サンローランと共に築いた文化遺産を示すこの二つの美術館のオープンを待たずに、ベルジェは息をひきとった。

 「メセナ」の語源は古代ローマのアウグストゥス皇帝時代に、ウェルギリウスなど詩人を庇護したガイウス・マエケナスという政治家の名前に由来する。ルネッサンス期に、文筆家・芸術家を庇護したメディチ家やフランソワ一世など有力者について使われるようになったが、今日では文化・芸術活動に出資する企業についてもこの言葉が適用される。実際には、企業のイメージアップや税の軽減のために芸術がだしにされることが多い中で、ベルジェのインタビューなどを聞いたり読んだりすると、彼は真に文学と芸術を愛し、経済論理より自分の情熱に忠実なメセナだったように感じられる。

「メセナとは見返りを期待せずに援助することだ」と彼は言っていた。作家になる夢を捨てて、パートナーの創造性の開花に自分の人生を賭けたベルジェは、サンローランの死後に綴った『イヴへの手紙』(2010年)をはじめ、何冊か著書を残した。2003年に出版されたエッセイでは、自分が出会った傑出した作家やアーティストの人物像を素描している。タイトルはアポリネールの詩「ミラボー橋」の一節であるーー『日々は過ぎ去り、僕は残る』Les jours s’en vont, je demeure。(飛)