この原稿を書いている現時点の窓景色は、3月になったというのに雪嵐の天気。おお寒。「雨樋から落ちる雨水が僕らを直撃するから、アパルトマンの雨戸を全部閉めて春を祝おう」という歌い出しの歌「シャルラタン(いかさま師)」は、春は名ばかりのペテン師と歌うのだが、「これは典型的なブリュッセルの春なんだ」と作者のイヴァン・ティルシオーは言う。寒くて雨ばかりの春だけど室内で春を謳歌するポジティヴな人たち、そういう笑顔が見えてきそうな、耳に心地よいアコースティックでオーガニックな佳曲。
イヴァンを紹介してくれたのはフランス人フォーク歌手のアントワーヌ・ロワイエ。ニック・ドレイク流のギターとインド旋律を融合させ高踏的なフランス語詞を歌う斬新さは、レ・ザンロック誌などに高く評価され、日本でも高橋健太郎が年間ベストに選び、輸入盤でかなり話題になった。パリジャンのロワイエが、パリでの創造活動に行き詰まりを感じて、ブリュッセル移住を決めるきっかけを作ったのがイヴァンだった。「アントワーヌは僕と最初に会った日の次の週にはもうブリュッセルに引っ越していたよ」。
イヴァンは1977年生れだから、若い新人アーチストというわけではないが、この2月にフランスで発売されたCD『飛翔(L’Envol)』が “デビュー”アルバムである。その制作年度は2014年と記され、本国ベルギーでも時間をかけて徐々に評価を高めている段階。そしてアルバム自体は最初の録音から3年の月日がかけられて完成した。それはひとつにはイヴァンの完全主義的な制作態度によるものだろうが、私は彼と話しているうちに、この人には時間がゆっくりと流れているのだ、と感じた。このゆっくり度は、彼の音楽の重要な要素のひとつであるボサノヴァ的なものかもしれない。プロ音楽家としてのキャリアは20年もあり、ジャズに始まり、ファンクやロックにも寄り道したが、ブラジルに滞在したことをきっかけに、今のアコースティックでオーガニックなスタイルに到達した。「抽斗(ひきだし)の中にはたくさん曲が書き溜っているの?」と聞いたら、「いや、このアルバムでほとんど使い果たした」と。少なくても良いものをじっくり時間をかけて仕上げていく、工芸家の匠の心のようなゆっくり度。
それは父ベルナールから受け継いだDNAのようだ。父は作家・演劇俳優・歌手・ガラス工芸家というマルチ芸術家。母は演劇人で、夫と共に1975年にシャルルロワ近郊の農家を改造して立ち上げた劇場・演劇工房「フェルム・ド・マルタンルー」を主宰している。3人の子供たちはこの演劇的環境の中で育った。兄グレゴワールはインプロヴィゼーション系バリトン・サックス奏者(数度来日している)、妹マドレーヌは画家・イラストレーターとして活躍している。ベルギーで”ティルシー“と言えばそういう血筋なのだ。
ジャケット写真に見える古い印刷工場のレンガ壁に打ち付けられた一対の鹿の角。「羽毛が取れた羽根の骨格のように見えるだろう?この写真ができてきた時にアルバムタイトルを『飛翔(L’Envol)』に決めたんだ」。収録曲のひとつ、「木の種(Graines d’arbres)」の歌い出しの歌詞はこうだ。
Il suffit d’une chute pour connaître l’envol (飛翔を身につけるには一度の落下があれば十分だ)
子鳥は落下することで飛ぶことを覚える。18歳で芸術家一家を飛び出た息子が長い間ゆっくりと落下して、今やっと飛ぶことを覚えたのだろうか。イヴァンの話の中には名門のボンボンとは無縁の苦労も多く出てくる。ある種の自虐パロディーだが、「なぜ明日に延ばすんだ?(Pourquoi remettre à demain?)」というブラジル・ノルデスチ調のリズミカルな歌(現在フランスの国営音楽ラジオFIPでよくオンエアされている)は、「あなた方は言うのさ、こいつは夢想家でボヘミアンだって。そうとも、俺はその特権階級のひとりで、この卓抜な歌詞の作者なのさ。白いページを字で真っ黒にするのにどれだけの徹夜をするのかわかるかい?そしてそれは一銭の稼ぎにもならないんだ。土曜日曜もなく俺は毎日額に汗して歌っているんだ」と歌う。芸術家の苦労症というのは理解されないものだ。
この歌だけでなく彼のアルバムにはブラジル色の強い曲が多い。複雑で繊細な和声進行はボサノヴァのものだ。この才能にいち早く注目したのがフランス人アーチストのポロ(元80年代のオルタナティブ・バンド、レ・サテリットのヴォーカリスト)で、ポロはイヴァンに「ボサノヴァだけでアルバム作れよ」と進言した。いくらなんでも全曲ボサノヴァというのは、とイヴァンはその案を退けたのだが、ポロは詞を書き送りこれをボサノヴァで、と強く求めた。その歌が「太陽の歩み(La marche du soleil)」で、太陽光線が地球表面を移動しながら照らしていくさまを描いていて、それに照らされて「まず最初に日本が伸びをするんだ、次に韓国、その次に中国」といった歌詞で、ポジティヴで太陽いっぱいのボサノヴァ。そのオプティミストな世界観は、川田晴久あきれたぼういず「地球の上に朝が来る」を想わせる。
ライヴを見て分かったのだが、複雑なハーモニーの出処たる彼のギターは変則チューニングを多用するので、毎曲の合間の弦チューニング変えが大変なのだ。「ギターヒーローは?」と聞いたら、ニック・ドレイク、バート・ヤンシュ、ディック・アネガルンといった名前が出てきた。アルバムの最後の曲「ギター(La Guitare)」はフェティシスム的なギター愛の歌だが、ルイ・アラゴンの詩にイヴァンが曲をつけたもの。
「なぜフランス語で歌うの?」「どうしてブリュッセルを離れないの?」—と私の質問は続くのだが、それはどちらも愛しているから、という明解な答え。アパルトマンの雨戸を閉め切ってその中で春を謳歌するブリュッセルの繊細な喜びを、ボサノヴァに載せたフランス語で表現すること、それは私たちの好きな一流のベルジチュード(ベルギー気質)でもある。
イヴァン・ティルシオーの次のパリ首都圏ライヴは、3月18日(金)La Menuiserie: 77 rue Jules Auffret 93500 Pantinで。
文・向風三郎
抽選で2名様に、新アルバム『L’Envol』 プレゼントします。
ご希望の方は、件名を 「L’Envol」として monovni(at ) ovninavi.comまでメールをお送り下さい。