ペレによるコンクリートの都市は、
意外に魅力ある街だった。
ル・アーヴルを訪れたのは今回が3度目。といっても前の2回は、どちらもエトルタからオンフルールに向かう途中に通過しただけだった。緑に覆われた丘を下り、サン・タドレスの海岸から入ったル・アーヴルは、まっすぐ伸びた大通りに灰色の四角い建物が並ぶだけのつまらない街に見えた。
2度目のときは、《オーギュスト・ペレによって再建された都市ル・アーヴル》としてユネスコの世界遺産に登録された後で、建物も街路もずっときれいになっていたけれど、ドイツから来ていた同行の友人は「東ドイツの町みたい」という。確かに中世の町並みが残るフランスの他の町に比べ無機質で、どこか全体主義の匂いさえ感じて、やはり好きにはなれなかった…。
それでもまたル・アーヴルを訪れたのは、見逃していた 「アンドレ・マルロー美術館」、ペレ設計の「サン・ジョゼフ教会」、それにオスカー・ニーマイヤーが設計した「ル・ヴォルカン」を見て回りたかったから。それにもうひとつ、アキ・カウリスマキ監督の映画“Le Havre”(邦題『ル・アーヴルの靴みがき』)が撮影された水路沿いのうらぶれた雰囲気がいい感じだったこともあった。
苛烈な空爆。
第2次世界大戦が始まると、ル・アーヴルは英国軍の補給基地に使われた。1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ル・アーヴルは英国攻略のための基地としてドイツ軍が占領した。
1944年、連合軍のノルマンディー上陸から3カ月半後の9月5日午後5時30分、英国軍による砲撃と空爆が始まる。5日間にわたる空爆で街と港は徹底的に破壊されます。落とされた爆弾は20万個、5000トンに及んだという。この苛烈な爆撃で、12,500棟の建物が消え、8万人を超える住民が被災、4万人が住む家を失い、5000人以上の市民が死んでしまった。〈正義のための戦争〉だから、ふつうの人々はどうなっても構わない、というやり方は昔も今も変わっていないんですね。
9月12日、ル・アーヴルはカナダ軍によって解放された。これがもし英国軍だったら、たぶん歓迎されなかったでしょう。
ペレによる再建。
1945年、新政府は商業港としてのル・アーヴルの再建を重要な課題として、再建・都市計画担当相ラウル・ドトリーは、建築家オーギュスト・ペレにその再建計画を任せます。鉄筋コンクリート建築の先駆として〈コンクリートの父〉と呼ばれたペレの実績が買われたのはもちろんだけれど、当時のフランスには、こんな大規模なプロジェクトを実施できるチームは、ペレの設計事務所しかなかったのもその理由だった。
ペレとその弟子建築家18人、それに地元の建築家たちも加わった建設工事は1945年に始まり、ペレの死後の1964年に終わります。
ル・アーヴル駅前に、2012年に開通したトラムの停留所がある。北へ向かうと戦災を免れた丘の住宅地。逆のラ・プラージュ(La Plage)行きで2つ目が、オテル・ド・ヴィル(Hôtel de Ville) 。ここを基点に西に延びているのがやたらに幅広いフォッシュ大通り。大通りの西端は海岸のポルト・オセアンです。そして市庁舎前から南の港へ向かうのがパリ通り。この2つの通りと、西端のポルト・オセアンから港沿いを斜めに走るフランソワ・プルミエ大通りとに囲まれた三角形の範囲133haが、碁盤の目のように区画されたペレによる再建地区です。
ペレと弟子のジャック・トゥールナンが設計した市庁舎は、ペレの没後の1958年に完成している。高さ90mの塔の展望台からは、再建都市と港が一望できます。(要予約)
市庁舎前広場の庭園は、周りの地面より一段低くなっている。ペレは爆撃後の膨大な瓦礫の山をそのまま整地し、その上に新しい街を建設したという。この一段低い庭園の地表は、元のル・アーヴルの地面の高さなのです。
ペレはこの地区の建物の寸法を6.24mを基準に、この1/2、1/3、1/4、あるいはこの整数倍で設計するように決めている。これは当時の量産コンクリートの梁の長さに基づくもので、この基準から規格化された部材を使ったプレハブ工法を可能にした。建物だけでなく街路の区画や道幅にもこの6.24mの基準を適用することで、街路の統一感と調和を図っています。
住宅の大半が中流階級のための集合住宅で、20%がHLM(低所得者向けの公共集合住宅)。幅広い並木道のフォッシュ大通りに面した建物は高級住宅が多く、外壁はル・アーヴルを支えた職業を描いた浮き彫り彫刻で飾られている。
パリ通りは、歩道に列柱が並ぶアーケードの商店街で、これらの柱はコンクリートに色のついた砕石を混ぜ磨き加工で仕上げている。ペレの建築は《構造的古典主義》と称するもので、こうした装飾もその現れだけれど、それがル・コルビュジエなどのモダニズム建築に比べて、やや古臭い印象がある。それに、再建地区の建物の大半は規格化された集合住宅だから、通りごとの変化に乏しく、歩いてもつまらないと感じてしまったのだ。前に来たとき見当たらなかった繁華街は、爆撃の被害が比較的少なかった市庁舎裏手のルネ・コティ大通り周辺にあったのです。
「アパルトマン・テモワン」。
パリ通りのペレ広場に面して「メゾン・デュ・パトリモワンヌ(文化遺産の家)、アトリエ・ペレ」がある。ここで予約すると、ペレ自身が設計したアパルトマンのひとつを見学できる。
裏手のアパルトマンの中庭から階段を上ると、2階(日本の3階)、「アパルトマン・テモワン(モデルルーム)」と名付けられた住戸です。1947年完成の建物で、室内は当時の生活がわかるようにすべて1950年代の家具や調度で整えられている。面積は90㎡、4~5人の平均的家族用の家。玄関ホールに入ると、石の混じった八角形の柱がペレ建築の象徴のように立っている。
南北に大きな窓が開かれた室内は光に溢れている。明るく風通しのいいことが、ペレの設計の基本だった。表通り側にはキッチンとリビング・ルーム、書斎が並び、静かな中庭側には3つの寝室。その間に、浴室、トイレ、広い収納戸棚が配されている。中央暖房、ダスト・シュートが完備され、防音も配慮されているという。地下には物置カーヴと駐車場。70年近く経った今でも、まったく古さを感じない、住みやすそうな家。地味でややつまらない印象の外観からはわからなかった、建築家ペレの真面目さが伝わってきます。
オーギュスト・ペレAuguste Perret (1874~1954)
ペレは石材に代わる建築素材としての鉄筋コンクリートによる建築の先駆者として知られている。
ペレが自宅・事務所を構えた、パリ16区フランクリン通りの建物は、最初の鉄筋コンクリート造による建築として知られている。主な作品に、シャンゼリゼ劇場 (1913)、ノートル・ダム・デュ・ランシー(1923)、レアヌール通り集合住宅 (1933)、旧公共事業博物館/経済社会庁舎 (1937)などがある。