政治家シモーヌ・ヴェイユの偉業
6月30 日、20世紀から今日までのフランスの生き証人、シモーヌ・ヴェイユが89歳で亡くなった。16歳でアウシュヴィッツの収容所生活を生き、戦後、司法官となり、74年ジスカール・デスタン大統領時代の保健相として中絶解禁法を成立させ、79〜82年、欧州議会初代議長、98〜07年、憲法評議会メンバー、08年アカデミー・ フランセーズ会員に選ばれた。同会員に与えられる佩剣(はいけん)には収容所で腕に彫られた番号78651が彫られている。戦時中からフランス、欧州の歴史を生きた女性だった。
生い立ちからアウシュヴィッツ送還まで
シモーヌ・ヴェイユ(旧姓ジャコブ)は1927年7月13日パリに生まれ、父は建築家。40 年ヴィシー政権によるユダヤ人弾圧を避け、ニースに移住する。44 年、16歳でバカロレアに合格した翌日、彼女は両親、兄姉と共にゲシュタポに逮捕されドランシーの収容所を経て、アウシュヴィッツのビルケナウ収容所に強制送還された。父と兄ジャンはリトアニアに送還され戻らなかった。母はチフスに罹り収容所で病死。シモーヌは18歳と偽り、ガス室に送られなかった。姉マドレーヌも生きのびる。収容所のことを語り合えるマドレーヌが52年、自動車事故で息子と共に亡くなったのがシモーヌにとって痛手となる。もう一人の姉ドゥニーズはレジスタンスを生きる。
男女差別、反ユダヤ主義のなかで
戦後1946年、税務調査官だったアントワーヌ・ヴェイユ(1926-2013)と結婚し、3児を出産。(2人は弁護士、1人は医師)。シモーヌは夫の反対を押し切って政治学院で法律を専攻し、司法官として刑務所管理局長になる。74年、大統領ジスカール・デスタンが彼女を保健・家族相に任命する。この頃まだ中絶は刑法で罰せられ(ヴィシー時代はギロチン刑に処した)、年間30万人の女性が死を賭してまで非合法の中絶を行うか、隣国に行って手術を受けていた。74年、女性議員が9人しかいなかった国民議会でシモーヌ・ヴェイユは中絶解禁法案を発表した。その様子はルポ映像に残っている。「中絶は悲劇であり、常に悲劇であり続けます。それに直面する女性の孤独と羞恥心…」とフランス史上初めて女性が女性の問題を取り上げた。保守派議員の中から「中絶の自由化はナチズムの復活。…貴女はアウシュヴィッツに胎児を送るのですか?」という暴言が放たれる。その議員は彼女がアウシュヴィッツにいたことを知らない。その時、彼女の涙を見た議員は少ない。彼女の自宅の壁には右翼がナチスのハーケンクロイツの印を落書きし、ホロコーストの生き残りを侮蔑した。70年代フランスの女性解放がいかに難しかったか、ナチスの傷痕がいかに深かったかが伺える。
ホロコーストの記憶を孫たちにも引き継がせる
2007年12月22日、シモーヌ・ヴェイユは、パリ・マッチ誌のルポ取材に5人の孫をアウシュヴィッツに連れて行き、自分が62年前にいた朽ち果てた収容所を見せ、祖母が生きた悲劇を伝えたのである。彼女が中心になり2014年パリのマレ地区にホロコースト記念館が設立され、フランスから収容所に強制送還されたユダヤ人約7万5千人の氏名が刻まれた大理石が記念館入口に立っている。
この70年間のフランスの生き証人となり、フェミニズムが生まれる前に女性に真の解放をもたらし、欧州統合のシンボルとなったシモーヌ・ヴェイユをパンテオンに埋葬すべきだという署名がネット上に5日間で35万集まる。7月5日、アンヴァリッドでのシモーヌ・ヴェイユ国葬式でマクロン大統領は、彼女に70年間付きそった夫アントワーヌと共にパンテオンに埋葬すると宣言した。