ブルキニ是非論。

シャルリ・エブド(16-8-31)「ブルキニ:いも袋で左派団結」

シャルリ・エブド(16-8-31)「ブルキニ:いも袋で左派団結」

8月5日、カンヌ市長が発令した海岸でのブルキニ禁止条例を、コンセイユデタ(国務院)は8月26日、「ブルキニの禁止条例は人間の基本的自由の侵害」とし、この条例を凍結状態にしたが、ブルキニ賛否論は衰えず尾をひきそう。

海岸でトップレスでいようが、ストリングのビキニでいようが、ヌーディストでいようが、(男性を刺激しないために?)女性の体は被うべしとコーランが啓示していても、自由の国フランスがブルキニ論争にカッカッとなっているのが他の国から見ると不思議に思えるよう。共和制、ライシテ(1905年政教分離法)、男女平等、ピルの自由化、同性婚も認めているフランスで、ブルキニ論争に哲学者から歴史学者まで喧々ゴウゴウの論争を交わしているのはなぜだろう。

中世時代から衣服による男女の相違が定着したのは、歴史学者によれば、道徳と性別を外見化するためだったという。その背景にはカトリック社会ががっしりと国民のモラルを支配していた。フランス革命11年後の1800年、「女性にパンタロンを禁じる」というパリ警視総監令が発布された。違反すると罰金が科せられた。もちろん当時は女性には参政権(認められたのは1946年)などはなかった。19世紀、20世紀前半まで女性の服装はドレスかワンピースかに限られていた。フランス初のフェミニスト作家ジョルジュ・サンド(1804-76)が男性支配の社会に憤慨し、夜間パンタロン姿で闊歩したのが女性解放運動の芽生えだった。それから150年後の1968年5月革命が火をつけたフェミニズム運動が、人口中絶やピルの解禁へとつながっていった。同時期にミニスカートが流行ったのも偶然ではなかった。

1989年イスラム女性のベールの是非論が世論を二分し、コンセイユデタに裁断が託された。国家と公務員の宗教的中立性を確定し、「宗教的しるしを身につけることは、挑発や宗教的誇示、プロパガンダにならないかぎりライシテに反するものではない」と判定した。2004年法は校内でスカーフやユダヤ教徒がキッパを被ることも生徒に禁止した。それ以来、公共の場でのイスラム女性のニカーブ(目だけ見せる)やブルカ(目の部分を網で隠す)も禁止され、罰金が課せられる。

ブルキニ擁護派は宗教の自由、意志表現の自由を掲げる。反対派は、ブルキニは男性への女性の隷属(むしろ宗教にだろう)を表し、海岸は公共の場だと主張する。カンヌのリスナール市長は7月のニース花火大会中のジハーディストによるトラック暴走テロとノルマンディーの教会神父の斬首テロの後だっただけに、ムスリム住民に対する一般市民のヘイト感情が高まるのを恐れて、治安のためにブルキニを禁止した意味合いが強かったのだろう。それと、ブルキニの一般化とともに、公営プールの男女の分離、学食での豚肉不使用などムスリムの宗教的慣習の浸透化にひっかけてムスリム移民の受入れに反対するのは国民戦線党首マリーヌ・ルペンだろう。これらの妥協策を廃止するルペン派市長たちも出始めている。ブルキニは次期大統領選戦でサルコジ前大統領定番のテーマ、「フランス人のアイデンティティ」論に火をつけかねない。

80年代に人種差別に反対し、左派インテリたちが叫んだ「多文化社会」=「多宗教社会」が、民族・文化のグローバル化によって現実のものになりつつある。ムスリム市民とキリスト教徒市民の融合か、摩擦か、対立か、西洋諸国の政治家たちが対処すべき、かつてない大きな政治課題になるのでは。ブルキニ問題は氷山の一角にすぎないのだ。