「第2の左翼」を生んだミシェル・ロカールの死。

ozawa20160712

 戦後のフランスでもう一つの左翼の道を目指したミシェル・ロカールが、7月2日、癌のため85歳で亡くなった。父イヴ・ロカールは高名な科学者でフランスの原子爆弾開発の先駆者。プロテスタントのミシェル・ロカールは青年時代のボーイスカウトの後、ジョレスの後継者の一人、ギー・モレが主導するSFIO(労働インターナショナル仏支部)に加わるが、57年、モレ首相のアルジェリア政策に反対し、ロカールはSFIOを脱党し、改革派が結集した統一社会党(PSU)の第一書記になる。

 ロカールが尊敬したのは、インドシナ戦争を終結させた「公正・厳格・真実の人」、マンデス=フランスだった。アルジェリア戦争に反対したロカールと、ヴィシー政権に協力し、アルジェリア戦争時代に法務相を務めたミッテランとの溝は塞がらなかった。この頃からロカールは「Parler vrai(真実を話す)」政治家として現実に体当たりしていく。

 ロカールはPSUから69年大統領選に出馬したが得票率3.61%に留まる。68年闘争でゴーシスト(左翼世代)たちの先頭に立ったロカールをミッテランは斜めに見ていた。ロカールは常に経済改革派、経済のエンジニアとして、社会主義と市場経済が折り合わないことはないと、北方諸国の現実に見合った社会民主主義を鑑にしていた。74年、ミッテラン主導の社会党(PS)に入るが、多分野で説得力のあるロカールはミッテランにとって最強のライバルとなる。「自分が生きているかぎり彼には絶対に党をわたさない」とミッテラン、「真のライバルは追い出さずに、彼が窒息するまで締めつける」ともらしたのもミッテラン。すでにロカールはミッテランの「変態的腹黒さ」を感じとる。TVドキュメンタリー番組『L’Enfer de Matignon(地獄のマティニョン)』は、独裁的大統領の下で働いた元首相たちの苦痛と葛藤が描かれている。マルクス主義を守る社会党の中で、81年に当選したミッテラン大統領が進めた大企業の国営化政策にも反対し、民間経済を優先するロカールは特異な存在に。「モラルのない政治は必ず失敗に終り、政治の伴わないモラルは効力を持たない」と、経済改革派モラリストとして頭角を現していく。77年ナントでの社会党大会で、ロカールが「左翼には二つの文化が存在する」と、共産党との統一共同戦線を組んだミッテランと一線を画し、改革派左翼を目指す。81年ミッテラン大統領就任後、ロカールは農業相に抜擢されたが、大統領が86年総選挙の投票を比例代表制にすると決めたことで、ロカールは激怒し辞任。比例代表制よってジャン=マリ・ルペンが率いる極右国民戦線党FN候補が初めて国民議会に登場。FNを政界におびき出したのはミッテランだったと言える。

 そしてメディアや世論調査で人気絶頂のロカールが、88年大統領選挙への出馬の意志を示したから、ミッテランは心穏やかではない。ミッテラン再選後、ロカールを首相にしないわけにはいかず、心ならずもロカール内閣ができる。失業率が上がり始めていたこの時期にロカールは失業者を対象とする社会復帰最低手当RMI (Revenu minimum d’insertion、後にRSAとなる)を新設、次いで社会保障の赤字削減のため一般社会貢献税CSG(Contribution sociale générale)を導入。同年、ニューカレドニアの独立動乱危機の前でロカールは現地代表との根強い話し合いの結果、独立かどうかの国民投票を提案し決着に導く。ロカールの采配力を予期しなかったミッテランは、これ以上長くロカール内閣を維持していると、自分の地盤が浸食されるのでは、と91年、理由も何も言わずに首相後任にエディット・クレッソンを抜擢。地方選挙での社会党の大敗を理由に、首相の座が暖まる間もなくクレッソンは1年で辞任。この時期に一番社会党内の不和が深まる。

 1994〜09年の15年間、ロカール曰く「死ぬほど退屈」なEU議員を務め、09年 からは「北極大使」として環境問題に最後の精力を注いだ。

 ジャン・ジョレス以来のフランス社会のプラグマティックな改革に努めたロカールの後継者は、「わたしだ」と、18歳でロカールを知ったヴァルス首相が真っ先に名乗り出る。前世紀の社会主義を知らないマクロン経済相も遅れまじと、ロカール式経済を引き継ぐ若き世代の先頭に立つ。

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