現在、公開されているトム・マッカーシー監督作『スポットライト 世紀のスクープ』(2016 年アカデミー賞)は、2002年にボストン司教区の80人ほどの聖職者による小児性愛(ペドフィリア)疑惑に関し20、30年前の過去を6人のジャーナリストが掘り起こし被害者の証言を頼りに教会というベールを引きはがしていく。当時これをスクープにし、西洋のカトリック教会をゆるがせたのはボストングローブ紙だった。この作品を地でいくようなスキャンダルがフランスのメディアを賑わせている。
フランス版「スポットライト」まではいかなくてもメディアや世論のやり玉にあがっているのはリヨンのバルバラン大司教(65)。大司教は、2人の聖職者(B.プレナ神父とJ. ビリウ神父)の小児性愛の噂や疑惑が浮上すると別の司教区に転属させ、ボーイスカウト活動やカトリック校のカテキズム指導を担当させたりし25年間目をつぶってきたという。プレナ神父は1986〜91年ボーイスカウトの少年たち60人余に性的暴行・虐待した。25年後に元被害者たちが「Parole Libérée(言葉の解放)」協会を設立しプレナ神父を訴えた。同神父は検挙され、今年1月27日取り調べに。「尊敬する神父さまに可愛がれた」被害者たちは、教会に関するかぎり「沈黙の掟」を守り、誰にも言えない羞恥と少年時代に刻まれた罪悪感に苦しんできた。アルモドバル監督の半自伝的映画『バッド・エデュケーション』が思い出される。
フィガロ紙(3月14日付)は、現在内務省幹部ピエール氏(42)の告白を掲載した。1990年と93年、彼が16歳と19歳のときボーイスカウト時代のルルド巡礼のときビリウ神父と親しくなり、ホテルで神父が彼の体にこすりつけてのマスターベーションや愛撫を拒絶することができなかった罪悪感に長年苦しみ、06年に提訴したが彼が未成年でなかったとしおクラ入り。彼は司法的に「被害者」として扱われないことを怒る。バルバラン大司教はビリウ神父の件を知っていたのに児童を守るための処置を取らなかったという。同神父は2000年に露出犯として1カ月の懲役刑を受けている。ここまでくると、聖職者は皆、変質者ではないかと思われそうだ。人々が教会を必要としなくなっている今日、神父らのスキャンダルは聖職者の独身主義のため、とこぼすキリスト教徒もいる。教会が神父を人間とみなさないことに「悪」の根がありそう。
今年3月15日、バルバラン=リヨン大司教は、ルルドでフランス大司教会議が開かれた際の記者会見で「自分は一度たりとも小児性愛の疑いのある神父を庇護したことはない、ジャメ(絶対)、ジャメ、ジャメ」と明言し、「ほとんどの疑惑は神さまのおかげで時効*になっています」の言に一般は開いた口がふさがらない。彼は「教会のサルコ(ジ)」と呼ばれるくらい行動的で、独善的、感情的と周りの者に言われているよう。ちなみにリヨン大司教の下には神父が400人、職員200人、補祭80人というフランス第3の司教区。バルバラン大司教はコンクラーベ(教皇選挙)にも招かれる。
しかし、児童性的暴行・虐待スキャンダルは聖職者だけではない。昨年3月23日に逮捕されたイゼール圏ヴィルフォンテーヌ市の小学校校長ロマン・ファリナ(46)は15年間、課外活動中に66人の生徒にフェラチオなどを課したり児童のポルノ風写真を撮影したりしてきた。この事件が報道されたとき、父兄、市民の怒りが爆発。教員・課外指導員の生徒への性的暴行事件は2015年だけで27件に及ぶ。聖職界といい、教育界といい、「沈黙の掟」が守られるタテの関係のなかで小児性愛のクモの巣は、被害者の恥辱の沈黙によって張りめぐらされ、彼らが成人してから訴えるときには「時効」で終る。3月28日、教育省は、85 万人の教育関係者の前科を調べ上げあげると発表したが最低1年半はかかるという。
*ファリナ児童性的虐待容疑者は、4月4日深夜、ローヌ県リヨン・コルバ拘置所で首つり自殺した。