ナポレオンは35歳で皇帝、マクロンは39歳で大統領。

Europ1 le Jdd – 22h50(17-5-7)

第5共和政最年少の大統領
 5月7日、大統領選決選投票で極右FN候補マリーヌ•ルペンがトランプ現象の波にのって、「アン•マルシュ!(前進!)」のマクロン候補の当選が危なくなるのでは…と有権者の半数が気が気でなかった。投票率75%、白紙投票が8.5%を占め約400万人がマクロンにもルペンにも反対票を突きつけた。結果はマクロン66.10%(2075万票)、ルペン34.90%(1064万票)。マクロン票の43%は、彼の公約よりもルペン票を阻むための票だったとはいえ、人種差別主義者である女性大統領の誕生を阻止したのだ。
 マクロンは当選した夜、ルーヴルのピラミッド前に集まった約2万人の支持者の前に単身、厳粛な表情で歩を進めていった。それは1981年に当選したミッテランが行進の先頭に立って1本の赤いバラを握ってパンテオンに向かって行った姿を思い起こさせるのである。

マクロンとマリーヌ•ルペンの対決
 5月3日の2時間半に及ぶテレビ討論番組で、ルペンは「国境閉鎖」「国家アイデンティティ」「野放図なグローバル化阻止」「外国人犯罪者追放」「多文化主義コミュノタリズム反対」「経済的愛国主義」「国民投票によりEU離脱:ユーロを廃止しフランにもどる」「フランス人優先の社会政策」など、この1年間彼女がオウムのように繰り返してきたオランド政権を攻撃する激論でマクロンとにらみ合った。ルペンの思い上がりと独善的反論は、マクロンの聡明、緻密な論戦に歯がたたなかったのか、薄笑いをはさんではごまかしていた。ルペン支持者の中にも彼女は大統領になる器ではないという印象を受けた視聴者がかなりいたようだ。彼女の得票率が予想されていた40%に達しなかったのは、この討論会での彼女の公約の裏付けの粗末さと大統領に相応しくない態度が裏目に出たともいえる。決選当日、彼女の側近たちの間で、父親ジャン=マリ•ルペンが1972年に設立した国民戦線党には、常に父親(2015年党首の座から下ろされる)のイメージがついて回るので、党名を変えようという提案が出ているという。マリーヌのカリスマ的イメージで若い世代を引きつけるには、それも必要かもしれない。

マクロンの政治家としてのこれからの闘い
 新鮮はつらつとしたマクロンが、ちょうど1年前の5月8日、オルレアンでのジャンヌ•ダルク祭(BLOG(16-5-12)「21世紀のジャンヌ•ダルクには誰がなる?」)で、1年後に大統領になることをフランス統一のシンボル、ジャンヌ•ダルクに誓ったとしか思えない計画が1年後に実現したのだ。
 しかし当選した日からマクロンの政治家としての真の闘いが始まった。沈没寸前の社会党の議員も、フィヨン候補が第1回投票で敗れ去った共和党の議員も、ルペンを阻むためマクロンに投票したとはいえ、6月11、18日の国民議会議員選挙で所属の党を離れてマクロンの新党「ラ・レピュブリック•アン•マルシュ」に移り、大統領が率いる与党に加わるかそれぞれが迷い悩み混迷状態に。真っ先にヴァルス前首相が社会党からマクロン派への移党を希望したが、マクロンが承諾しなかった。派閥を乗り越えて保守•社会主義•極左のイデオロギーに束縛されずに政策を協議できるようにするのがマクロンの「右でも左でもない」超党派の政治運動なのだ。既成政党の縄張りに縛られてきた戦後の右派•左派の隙間をくぐってルペン派が庶民の移民に対する警戒心と危機感、社会不安を煽ってフランスの東北部の過疎地帯や南部で伸びており、移民•外国人への憎悪感情(=極右愛国主義)を利用してフランスのポピュリズムを伸ばしている。

マクロン派新党〈ラ・レピュブリック•アン•マルシュ〉結成
 マクロン新大統領誕生翌日、彼は1年前に設立した政治運動体〈アン•マルシュ!〉代表の座を辞任し、新党名を〈La République En Marche! 前進する共和国〉とし、6月11日 – 18日の国民議会議員選挙に428人の候補者(市民50%)を立てると発表した。あとは首相を誰にするか、保守派から選び保革共存政権の再現か…。マクロン大統領の社会•経済•欧州連合へのイデオロギーを超えてのプラグマティックな政策が、オランド政権の延長線にすぎないといわれようが、新内閣の半数を民間人(男女半々)から選ぶという姿勢をみれば、派閥が支配してきた政治土壌をがらりと変えられそうだ。その意味で、マクロンは21世紀初めてフランス政治の改革を目指す。それは彼が従来の政治家感覚を持っていたらできないことだろう。

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