『アンヌへの手紙』『アンヌのための日記』

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 10月26 日、生誕100 年の故ミッテランが49歳の時、恋に落ちた のは、当時19歳だったアンヌ・パンジョだった。彼が1962年から1995年9月まで送り続けた1200通余の恋文書簡集『Lettres à Anne』(1280頁 / 35€ / Gallimard)が10月14日、『JOURNAL POUR ANNE 1964-70』(Gallimard/45€)とともに同時出版された。
 クレールモンフェランの事業家のブルジョワ家庭に生まれたアンヌ。ミッテランはすでにいっぱしの政治家。アンヌさんの父親と親しかったミッテランは、知的で清楚そのもの、若きアンヌに一目惚れしてしまう。彼女は後に19世紀彫刻の専門家としてオルセー美術館彫刻部門の主任になる。

 ミッテランには、レジスタンスで知り合い、44年に結婚したダニエル夫人との間に息子二人がいた。 しかし妻との離婚は問題外だった。『アンヌへの手紙』は62年から32年間、隠れたミッテランの恋人であり続けたアンヌさんへの恋情を詩的に、情熱的に、余情豊かに綴り続けた高度な文学性に満ちた恋文全文を出版することに、アンヌさんが承諾し、ミッテラン研究所とその理事会メンバーである娘のマザリーヌさんも同意したことで実現した。いくつかの手紙の断片を抜き出してみよう。

1964-11-15〈…貴女にお会いしたと同時に、遠大な旅に出る予感がしました。どこに行こうとも、そこには常に貴女がいます。貴女のお顔、光を賛美し、私はもはや闇に落ちることはないでしょう。死の孤独もそれほど孤独ではなくなるでしょう。アンヌ、モナムール〉。

1963-12-13〈最初に会ってから2カ月。現実とのギャップや迷いなどはありません。1週間ごとにさらなる深みを増しています.…私を貴女に近づけるものは、好奇心でも情欲でもありません。いや、私たち、波乱の恋人同士、これからの旅のガイドも道案内も必要としません。…〉

1964-3-24 〈…私が愛している女性が私を愛してくれる時、私の勇気は増大し、さらに遠くに進めます。その時、すべてが変わる。変わることのない交情、差し出す手、差し向けられる顔、もはや元に戻れない唯一の人との一体感…。見放すことや、内面的な飢え、渇きを拒みます。なぜ? よくわからないが、アムールとは、もしかしたら、突然あるマチエールを呼び覚まし、秘められた新しい生を気づかせる触媒なのかもしれません…。恐れないで、アンヌ、貴女の助けは素晴らしい。それ以上のことは求めません。むしろ心底求めているのは、私が絶対と呼ぶもの! それは私たちの間にある秘密の約束、共感、関係、真実というものが存在し、もはや私は旅の中で一人ではない、ということを確信したうえで実現するものです。…〉

1964-4-13〈…貴女とともにいる時、今まで感じたことのなかった情感が目覚めます。…貴女に寄せる私の優しさこそ、生まれて初めて自分の内から飛び出し得たことの証しなのです。…〉

1964-5-3〈…怖がらないで、アンヌ、偶発事や弱さが堅固な柱を動かすことがあっても、私はけっして貴女の基本的自由を損なうことや、貴女が自分の道を選ぶ自由、もしくは私以外の男性との関係を遮るようなことはしません。…私との道を選ばれた貴女から私を引き離すのは死しかないのです…〉

1970-7-3〈…貴女を私の最期まで愛していたい、神を信じるなら、時の終焉まで愛していたい。〉

1970-7-16 〈 …1963年8月以来、私は君をこのうえなく愛している。君が指摘する「二重生活」だが、それは社会面でのことであり、無意識にそのままにしておいた自分を許せないのです。でも私は他の方法を選ぶことはできなかった。君は反発し、無意味なことよりも創造、現在よりも未来を選びたいと言っていた。私は反対に、豊かな現在の上にこそ未来を築くべきだと思う…私が愛を、幸せを、生きている存在を築くためにどれほど苦心したか想像できないと思う…〉

1970-7-16〈本当のことを言うと、私は君を自分の子供を愛するように愛してきた。不思議に思う?ショックかな。君を愛するがゆえに私たち2人の子どもを持ちたい気持ちにさせる。笑わないで…君は毎日私が、この幽遠な天地のなかで夢見た子どもなのです。君を失うことは最大の悲運。肉体的にも君が別の男性のものになると考えるだけでも残忍そのもの…〉

最期の手紙:1995-9-22〈…私の幸せは、君を想い、君を愛すること。君はいつもさらに多くを私にもたらしてくれた。君は私の人生の幸せそのもの。これ以上愛さないでいられようか?〉

『アンヌへの日記1964-70』は、恋に落ちた後だけに『手紙』よりも激しい恋情が連綿と連なる。

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