60年来の傷跡、アルキー問題。

9月25日、オランド大統領はアンヴァリッド内庭で、アルジェリア戦争(1954-62)後、引きずってきたアルキー問題に関し「フランス政府が彼らを見捨て、アルジェリアに居留まったアルキーへの、フランスに敵対した住民による虐殺と、祖国解放後フランスに来た彼らへの非人間的待遇に対するフランス政府の責任」を正式に認めた。2012年にもサルコジ前大統領は「1962年アルジェリア独立後、仏軍隊とともに戦ったアルキーたちを見捨てたことへの仏政府の責任を表明している」。

アルキー(Harki)の語源は、アラビア語のharaka(部族同士の衝突)から来ている。フランスがアルジェリアを占領した1830年、原住民兵として仏軍隊に徴兵されたのがアルキー。以来、彼らは第2次世界大戦までフランスが関わった戦争に出兵している。アルジェリア解放直前の1961年には仏軍隊の中に26万人余のアルキーがいたと言われる。彼らの家族も加えれば150万人のアルジェリア人がフランス人として仏植民地にいたことになる。戦死者や負傷兵としてフランス人並みの傷痍軍人保障はほとんどないにひとしい。未解決のままのアルキー問題について、レイモン・アロンの娘ドミニック・シュナッパー(社会・政治学者)は言う、「アルキー問題はフランス史に残る恥辱の1頁であり、ナチス占領中にヴィシー政権がユダヤ人強制送還のためにヴェル・ディーヴ競馬場に数万人のユダヤ人を集め、アウシュヴィッツに送ったのと同じ歴史上の汚点となっている」と。

1962年3月18 日、フランスがアルジェリアの独立を認めたエヴィアン協定が締結された。その後、仏軍隊に協力したアルキーたちを「裏切り者」「売国奴」として地元人による彼らへの「復讐の虐殺」が繰り返され、その犠牲者は15万人にのぼると言われている。1965年までにアルジェリア新政府はフランス協力者として約1万4千人のアルキーに懲役刑を宣告した。

アルジェリア独立後、祖国フランスに引き揚げて来たのは、ピエノワールと呼ばれる仏元入植者やセファラード・ユダヤ人(北アフリカのユダヤ人)、親仏ムスリム人たちを入れて合計250万人、彼らはじきにパリ近郊に建てられた高層セメント団地HLM(低家賃住宅)に吸収された。フランスに移住してきた仏国籍を持つアルキーは約4万2500人にすぎなかったものの、イスラム教徒であることから、当時キリスト教徒が占めていた地域に彼らを分散させることは難しく、南仏の主に南東・南西部やリヨンの都市郊外などに分散された。今日フランスにはアルキーの子孫は50〜80万人いるとみられる。ドゴールが1959年3月、当時のアルジェリア担当の事務次官アラン・ペイルフィットにもらした言葉「アラブ人やベルベル人をフランス人として認めたら、私の村コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズはコロンベ・レ・ドゥ・モスクと呼ばれるようになるだろう」。ドゴールは60年後のムスリム人口の増加とイスラームが第2の宗教になることを予想していたようだ。

フランスの現代史のパズルの中で、1個が欠けており、穴ができたままだとしたら、フランスがアルジェリアに見捨ててきた元フランス人であるアルキーの存在空間が埋まっていないからである。そしてなぜ今、オランド大統領がフランス国家としてアルキーへの謝罪を公けにするかというと、来年の大統領選挙の前に彼らの子孫が、サルコジ前大統領が再出馬を目指す共和党や右翼マリーヌ・ルペンFN(人民戦線)党の甘い言葉に惑わされないようにするためなのか。どちらにしてもフランスには過去の歴史を背負う二種のアルジェリア人がいるといえる。

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