フランスでありつづけるニューカレドニア。

「ニューカレドニア:いつまでフランス領土?」(Libération : 18-11-01)

 11月4日ニューカレドニア(人口約27 万人)でフランスからの独立の賛否を問う住民投票が行われた。80.63 %という予想以上の投票率で、独立反対56.7%、独立賛成43.3%となった。6カ月前の4月16-25日の予想投票率では独立賛成が59.7%だったのが、この6カ月間で逆転しニューカレドニア独立への夢が遠のいた。
 1774年英国人ジェームズ・クックがニューカレドニアを発見し、フランスはナポレオン3世が1853年に流刑植民地とし、囚人やパリ・コミューン活動家や植民地からのアルジェリア人を送り込んだ。グランドテール(本島)の西南部には彼らの子孫が多く住むと言われる。民族構成はカナック40.3%、西洋人(カルドッシュ)29.2%、ワリシア人(ウォリス・フツナ系先住民族)8.7%、タヒチ人2%、インドネシア人1.6%、ベトナム人1%、その他16.2%(戦前ニッケル労働者の日系子孫:8千人、他アジア人)。
 1947年脱植民地後、植民地の地位から仏海外領土となったが、28の種族語からなるニューカレドニアのカナック解放運動は全島に広がり独立運動が激化していった。1988年4月22日、解放戦線活動家は憲兵本部を襲撃し憲兵4人を射殺した後、27人を人質にとりウベア島のゴサナ洞窟に閉じこもり解放戦線側19人が射殺された。この人質・ 射殺 事件のとき生まれた世代は今日30歳だ。彼らは、仏植民地時代からカナックが引きずるフランスに対する怨念も薄れ、現実主義に重点をおく若い世代層のフランス人としてのアイデンティティが母国からへその緒を切断されることを拒否したのかもしれない。
 1988年ミッテラン政権下、ロカール首相の音頭で社会主義カナック解放戦線(FLNKS)のジャン=マリ・チバウ代表(1989年、独立過激派に暗殺された)と保守派リーダー、ラフルール氏との間で交わされたマティニョン合意に次ぎ、1998年ヌメア協定では住民投票の実施が決められた。しかしこれですべてが終ったわけではない。ヌメア協定は、独立派が70%以上を超えた場合は、2年、4年後に第2回、第3回の住民投票を行うという条項が含まれているのだが、10月5日ニューカレドニアを訪れたフィリップ首相も、第1次大戦休戦百周年式典で元戦場遺跡を回っているマクロン大統領もこの点については一言も触れていない。30年以上の話し合いによりここに至ったことをフランス共和国の誇りとして大統領、首相ともニューカレドニアがフランスであり続けることに安堵する。新たに住民投票をしても同じ結果が出るだろうという見方が多い。
これからのニューカレドニア。
 ニッケル鉱山が発見されて以来、日本人、他の東洋人の契約労働者が急増し、鉱山労働者が増えていった。今日ニッケル生産国6位のニューカレドニアは世界の4分の1を生産。カナックの土地所有などを制限するアパルトヘイト的制約が敷かれたこともあり、カナックと西洋人(カルドッシュ)との格差が広がっていった。
 日用品・食料品の輸入経済により、本国より物価が2倍高であるうえ、ルモンド紙(18-11-1)が報道したように、カナックとカルドッシュの格差を具体的に見るなら、就業率は、西洋人64.4%、ワリシア人53.8%、カナック44.9%。西洋人は幹部クラス19.6% – 労働者10.2%に対し、カナック人幹部2.7% – 労働者36.4%、その他では幹部7.9% – 労働者24%。高等教育卒:西洋人39.3%、カナック4.1%、ワリシア人4%、その他16.8%。地理的にも南部住民の生活水準は北部住民より2倍高く、ロワイヨテ諸島住民より2.5倍高いという。このように、社会・経済的格差が存在することは無視できない。しかし文化的アイデンティティの相違も、20年、30年後さらに深まるカナックとカルドッシュの融合・混血により全員が母語フランス語を話すニューカレドニアンになっていくのだろう。

(BLOG : 2018-5-9参照)

 

(Le Figaro.fr)