ジャン・ドルメッソンといえば、アカデミー・フランセーズ会員でフィガロ紙の編集長でもあり、テレビの文壇討論会でよく目にしていた。12月5日、92歳で亡くなり、今さらながら、現代の偉大な哲学・文学者が去っていったことに唖然とする。
ジャン・ドルメッソンは1925年パリに生まれ、父はレオン・ブルムの友人でドイツやルーマニア、ブラジルの大使を務め、仏赤十字の初代代表に。母方が貴族の家柄で、ジャンはサン・ファルゴ城で少年時代を送る。その時期を描いた小説が『Au plaisir de Dieu』。学業終了後、地方紙やParis Matchの記者になる。37 歳でフランソワーズ・ベガン(砂糖Béghin-Says創業者、50 年からフィガロ紙取締役だったベガン氏の娘)と結婚。
71年に出版した『La Gloire de l’Empire』で一躍有名になる。
74 年から83年までフィガロ紙の取締役社長を務め、右派ブルジョワの思想家として、ジスカール、ミッテラン、シラク、サルコジと多くの大統領の相談役も務める。約50册の書籍を出版。73年アカデミー・フランセーズ会員となり、マルグリット・ユルスナール を初の女性会員にすることに力を入れた。映画『大統領の料理人』ではミッテラン大統領役を演じ、最期まで矍鑠(かくしゃく)としていた。
12月5日、アンヴァリッド中庭での葬儀でマクロン大統領は フランスの文化•歴史を貫く哲学•文学の魂を軽いタッチで書き表してきたドルメッソンに捧げる哀悼の辞の冒頭で、「泉水の水はあまりにも澄明だが、その深さを理解するには身をかがめて長い間見つめなければならない」というアンドレ・ジッドがラ・ブリュイエール(1645-96 : モラリスト作家)について書いた言葉を引用し、「この言葉こそジャン・ドルメッソンに当てはまる」と述べ、フランス文学の神髄を開示していった。最後に三色旗がかけられた棺の上に一本のえんぴつを供えた。マクロンならではの哀悼の儀だった。
その翌朝、ジョニー・アリディに民衆がアデュー
数年前から、肺ガンのため入院を繰り返していたジョニー(1943-2017)が12月6日、60 年のロック歌手の幕を閉じた。1960 年代からフランスのエルヴィス・プレスリーといわれ、フランスで初めてロックンロールを大衆化し、ツイスト、ポップス、ブルースと展開していき、若者のアイドル歌手になった。この60 年間、村でも町でも民衆がうれしい時に、悲しい時に、口ずさんだのはジョニーの愛を叫ぶ歌だっだ。フランスのロックの巨星は、世界中に1億1千万枚以上のディスクを販売し、世界中で3250回のコンサート。私生活も紆余曲折し、65年シルヴィ•ヴァルタンとの結婚から、現在までに5回と、結婚歴も多かった。そのたびにメディアが報道し、目が回るほど。
ジョニーは、ベルギー人母親と歌手だった父親の間に生まれたが生後間もなく両親は離別し、里親に育てられる。14歳の時にプレスリーのLovin Youを知り、歌手になる決心をし、60年3月にEP45回転を出したのがロック歌手の誕生となる。
現在70代以上の世代から子どもまで、ジョニーの愛を絶唱する声とギターなしには暮らせなかったのが、戦後べビーブーマーを含むフランスの民衆なのだ、と痛感させられたのは、死後3日後の9 日、全国からジョニーが愛したバイクの愛好者700人余りが地方からもシャンゼリゼに集まり、永遠のアイドルの歌を響かせながら、マドレーヌ寺院まで霊柩車の後をついて行ったことだ。同地区の歩道には100 万人以上、その中にはむせび泣きする人、ジョニーの歌を合唱する人であふれ、53年前に亡くなったエディット・ピアフの葬儀以上の規模に。フランス人の喜怒哀楽を凝縮して歌ってくれたジョニーに、置いてきぼりにされた老若男女の姿を見せられた。民衆にとってジョニーの死は、150年近く前に亡くなったヴィクトル・ユゴーの死に匹敵すると言ったジャーナリストもいた。民衆の心を、魂を支えてきたジョニーだったのだ。10 日、ジョニーの棺は彼の第二の故郷、カリブ海アンティーユ諸島のサン・バルテルミー島の墓地に向かった。