コルスにナショナリズムが芽生えている…。

「沖合いに出て行くコルス」(Libération:17-12-11)

本土人にはバカンス地として愛されているコルス(コルシカはラテン語、コルスはイタリア語)の12月3、10日のコルス議会選挙の投票率は53% だったが、2014年以来バスチア市長を務めるジル・シメオニ候補(Femu a Corsica党=コルシカをつくろう)とタラモニ候補(Corsica Libera代表、元FLNC幹部 )のナショナリスト連合候補リスト「ペ・ア・コルシカ(コルシカのために)」が圧倒的得票率56.5%(3日の得票率46% )を得て、63議席中、41 議席を獲得した。
 1976 年からオート・コルスとコルス・デュ・シュッドの2県になったが、2000 年代から1つにする案が進み、04年コルス両県議会が承認、15年、国民議会で成立し、2018年1 月1日より1つのコルスになる。したがってシメオニ主導のナショナリズムの動きがますます強まっていきそうだ。以下、コルスの歩んで来た歴史を追ってみよう。どうしてカタルーニャがスペインと、コルスがフランスと袂を分かちたいのかわかるようだ。

地中海の〈美の島コルス〉のアイデンティティ?
 紀元前2世紀からサルデーニャ、シチリア島と共にローマに支配され、6世紀にはビザンチン、7 世紀にシャルルマーニュ、804-8013年ムスリム・ムーア人の侵入、1347年からジェノヴァ共和国に支配され、4世紀後(この間農民の暴動が相次いだ ) に独立したコルスは、ジェノヴァからフランスに移譲された。暴動の中心になったパスカル・パオリ(1725 -1807)がコルス独立構想の基礎をつくる。パオリによって1755-69年の15年間独立したが、仏軍が独立派を弾圧し、パオリは 英国に亡命。コルス生まれのナポレオンの(1769-1821)在位中、1793 年コルスを2県にした。1858年まで公用語だったイタリア語がフランス語に代わり、一般に通用していたコルシカ語の使用を禁じる。1922年ロシア革命を逃れたロシア人3 千人が移住。第1次大戦にコルスから6万人近い男性が出兵し約1万人が戦死。1957〜65年アルジェリアからの引揚げ者(ピエノアール)に90%の農地を分譲。1975年、ジル・シメオニの父エドモン・シメオニ医師がナショナリズム運動を開始。76 年、独立過激派FLNC(コルス解放戦線)が生まれたが、89-99年 FLNC-Canal Historique と FLNC-Canal Habituelに分裂。1998年、エリニャック知事がイヴァン・コロナに暗殺される。内部闘争に地元のマフィアも加わり、テロ暗殺事件も増え2012年だけで死者18人にのぼる。
 大国に支配されるたびに、コルシカ語、イタリア語、フランス語と公用語が変化するなかで、(戦前の日本国が朝鮮やアジア占領諸国で母国語の代りに日本語を強要した)のと同様に、母国語を禁止することはアイデンティティの喪失につながる。こうした多国籍の移住者を吸収してきたコルスは、移民に反対する極右国民戦線(FN)マリーヌ・ルペンの最大の得票地域の1つであり、コルスでの17年大統領選の得票率はマクロン(51.48% )に次ぎ48.5%だった。

マクロン大統領の試金石。
 90年代から、コルス問題は各政権にとって頭痛の種として、はれものに触るような対応だった。18年から1つになるコルスについて、12月12日フィリップ首相は「今までにない初めての制度的建設であり、フランスの最も地方分権化した地方となるだろう」と表明し、マクロン大統領は「パクト・ジロンダン(*革命時代にボルドー地方出の政治家グループとの協定)を試みる特権的な地方をつくれるだろう」とし、大統領就任前にもすでにコルスを「仏共和国の中の1つの自治地方」として位置づけている。ただナショナリストが要求するフランス語とコルシカ語の両言語の公用語化については、マクロン政権のスポークスマン、グリヴォ氏も大統領の構想を確認するように、「フランスの言語は唯一フランス語のみ、コルシカ語は地方文化として維持すべき」とする。ナショナリストの要求の中には、島の地価の高騰を防ぐため、5年以上の在住者のみに土地売買を認めることや、本土で服役しているコルス服役者の島内刑務所への移送などがある。そこでマクロン政権は、これからのコルスとの話し合いの調停者として、地方問題を専門とする、内務省閣外相ジャクリーヌ・グロー氏を任命した。コルスがカタルーニャのようになるか、5年、10年後に本土とコルスの関係が浮き彫りになっていきそうだ。ジル・シメオニ(50歳)は、フランス版ブッチダモン(カタルーニャ独立運動指導者)と呼ばれるのを拒み、社会的、経済的に本土との分離はまだ早いと表明している。

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