6カ月後、ニューカレドニアが独立国になるか。

ニューカレドニアの紋章

5月3 〜5日、仏大統領として30年来、初めてマクロン大統領が太平洋の仏領ニューカレドニアを訪問した。11月4日に予定されているニューカレドニアの独立を問う住民投票をひかえ、165年以来のフランスとニューカレドニアの関係を追ってみよう。

1774年に英海洋探検家ジェームズ・クックが島を発見し、スコットランド(ラテン語でカレドニアと呼ばれた)に似ていたので「ニューカレドニア」と命名したのが始まり。が、オーストラリア北東部の島々は5万年前から先住民の定住地だった。18世紀から西洋人の往来が盛んになり、1770年、英国はオーストラリア東部半分を植民地に、19世紀までに他の5地域も植民地化し、1901年1月、計6地域が英連邦国となる。

一方、フランスは1853年、ナポレオン3世がニューカレドニアを流刑植民地とした。仏旧植民地アルジェリアには19世紀から貧困農民らがこぞって入植したが、ニューカレドニアはあまりにも遠く、入植希望者が少なかったので、政府はニューカレドニアを犯罪人の流刑地とし、パリ・コミューンの共産主義者やアルジェリアのカビル地方の民族主義者らの流刑地とした。仏植民者の子孫はカルドッシュと呼ばれ、フランス人としてのアイデンティティを保持する。植民地時代にできた、先住民を差別する諸法は1946年に廃止された。

今回マクロン大統領は、1853年にナポレオン3世が署名したニューカレドニア占領証書を現地の歴史資料館に返還するという。この点が反独立派の批判するところとなっている。

独立運動の過激化

1860年代にニッケル鉱脈が発見され、欧州人、ポリネシア系、東洋人労働者が移住し始めた。同時に脱植民化運動とともに独立運動が過激化する。1988年4月22日カナク独立派と社会主義カナック族解放戦線(FLNKS)派たちがウベア島の憲兵本部を襲撃し憲兵4人を射殺し27人を人質にとり島のゴサナ洞窟を占拠した。数日続いた仏憲兵との攻防戦でカナク独立派19人が銃殺された。同年6月、ミッテラン大統領再選後ロカール首相は、カナク指導者チバウ氏と、保守派リーダー、ラフルール氏とのマティニョン協定調印を実現した。同協定には 30年後に独立を問う住民投票の実施が明記してある。しかしながらそれから1年後の1989年 5月4日、チバウ氏と片腕のエイエネ氏は独立過激派ゴサナ族の1人に暗殺された。1998年5月5日のヌメア協定により住民投票を2018年までに実施することを確定し、今年3月ニューカレドニア議会が住民投票日を11月4日と決定した。30年前のウベア島事件のしこりは住民部族の間の怨念となって残っており、全島民がマクロン大統領を歓迎しているわけではない。

住民投票は、独立派と反独立派の対決

長年、どんな選挙でもボイコットすべきという独立派のキャンペーンを受け入れてきたカナク住民がどれほど住民投票所に足を向けるか懸念されている。カレドニア・テレビ付属の統計局I-Scopeが5月2日に発表した世論調査によると、4月16-25日に826人を対象にした予想投票率は、独立反対59.7%、賛成22.5%、未定17.8%。島の住民はフランス人であり続けるか、それともニューカレドニア人になるかの分岐点に立たされている。30年前のウベア島事件後に生まれた若い世代の選択にかかっているとも言える。