マダム・キミのシルバーラウンジ:2019年4月1日号

 赤木曠児郎氏は岡山市で生まれ、今年85歳。父は国鉄勤務中、徴兵され満州に。終戦2年後にロシア軍に釈放され帰還、国鉄に戻る。母は洋裁学校を経営。彼は岡山大理学部物理学科を出た後、上京し婦人帽専門店に弟子入り、そこで同郷人でもある10歳上の香与さんと出会い、結婚。学生時代からの絵も続け二科展に入選。1963年、2人はスエズ運河経由で来仏。

来仏した当時、日本人滞在者はいました?

自由化前ですから日系商社も少なかったです。私はボザールに行き絵を描いていました。ホテル住まいからアパートに移り、東京の何社かの嘱託デザイナーになりました。10歳年上の女性と結婚するとなった時、家族や周りの人に反対されましたが、結局働いている分野が同じで助け合い、60年以上夫婦であり続けられたのでしょう。服飾や婦人帽子の仕事を手掛けていたので、買い付けや、仲介の仕事もしました。妻はジバンシーやバレンシアガのアトリエで縫製技術を磨き、計18年いました。私は大丸で海外嘱託として38年間、年4回、オートクチュールとプレタポルテのバイヤー助手を務め、同時に「繊維新聞」に記事を書いていました。69年創刊のモード雑誌「GAP」を紹介、日本語版の窓口に。60〜70年代の日本とパリのモード界の発展期の渦中にいました。プレタポルテという言葉は、1950年に既製服メーカー、ヴェイユ社が創った語ですが、私は72年に仏プレタポルテ連盟を初めて日本に紹介しました。1975年記者として業界功労賞 「金のピン賞」を頂きました。

ずっと制作しておられる赤い直線の建物の絵はいつ頃から始められましたか?

1969年からです。5月革命で美大のアトリエも閉鎖したため、外で描き始めたのです。人物を描くよりも時代を背負ってきた建物を精密に描くのは、大学時代に理工系だったからでしょうか。私はパリで車のない生活を続けてきましたが、地下鉄を使ったり歩いていたからこそ夫婦共々丈夫だったのかもしれません。建物とにらめっこしている私を遺して、妻は昨年、心不全でソファに腰かけたまま眠るようにしてあの世に旅発ちました。

*吉井画廊(8 av.Matignon 8e)で4/27まで個展。
 15区区役所で、4/5から6/27まで個展。