オランド大統領の「勇気ある明晰な決定」。

リベラシオン紙(16-12-2)「ボクなしで」

リベラシオン紙(16-12-2)「ボクなしで」

オヴニー12月1日号の時事解説「右派公認候補は、やっぱりフィヨン元首相」の最後に「オランド大統領は何やってんの? 続投しないなら引退するつもり?」と書いてしまった。同日夜8時、フランス・テレビ2にオランド大統領が厳粛な顔をして、在任中の最大目的だった失業解決が果たせなかったこと、唯一の後悔として、二重国籍テロリストの仏国籍剥奪案が実現しなかったことなどを総括した後、「次期大統領候補にならないことを決心した」とはっきりエリゼ宮から表明したので、閣僚からエリゼ宮関係者、社会党議員までがドギモを抜かれるほどの突発的宣言をした。その直前までそんなことは口にもせず、まさかヴァルス首相とは話が通じていたのだろうかと誰もが狐につままれた感じだ。が、オランドが決心した裏には、セゴレーヌ•ロワイヤル環境相(未婚だがオランドとの間に子供4人)と子供たちが、パパに立候補を諦めさせたという噂が流れている。大統領選第1回投票で落選するのが分かっていながら、それ以前の左派予備選挙でも落ちたとなったら不名誉のダブルパンチを受けることに家族は耐えられないのだろう。「勇気ある明晰な決定」を発表した翌朝、オランド大統領は国賓としてアブダビに飛び立った。あと5カ月間、大統領であり続けるのだ。

最近、無所属で大統領選への立候補宣言をした前経済相マクロンだけでなくヴァルス首相も「勇気ある明晰な決定」と、オランドの屈辱的宣言に敬意を表している。この数日間、ヴァルス首相と顔を合わすたびに「何時はっきりさせるのか」と決断を迫まる目が向けられていたのだろう。大統領なら再選を目指すのが当然で自然なのだが、支持率が4 %という史上最低に落ちているばかりか、10月13日、オランドの独白書『大統領が言うべきでないこと…』が出版されたことで、大統領としての品位が落ちたばかりか、もう大統領になる資格はないというアンチオランド熱が高まっているなかで、若きヴァルス首相に気をもたせ引き際が遅すぎたと見られている。

大統領との主従関係から解放されたヴァルス首相は、近日中に首相を辞任し、オランド政権造反組のブノア・アモン元教育相(49)や、メイド・イン・フランス・キャンペーンに力を入れたアルノー・モントブール(54)元経済相らと、来年1月に行われる左派予備選で競り合うことになる。大統領選第1回投票には彼らの他に共産党が支持する左翼前線のメランション、無所属のマクロン前経済相、欧州緑の党ジャド候補…と、10人近い候補がひしめき左派票が分散するため、決選は共和党のフィヨン候補と国民戦線(FN)マリーヌ・ルペンの一騎討ちになる確率が高い。

ちょうど07年第1回投票で、社会党候補ジョスパン元首相がジャン= マリ・ルペンFN候補より得票率が低く3位になったため決選はシラク元大統領とルペンとなった。この時、左派投票者は鼻をつまんでシラクに票を入れた苦い思い出がある。おかげでシラクは得票率85%という稀な当選者になった。しかし現在、父親の反動的イメージから脱皮したマリーヌ・ルペンは、地方・郊外の庶民•労働者層の間でも30〜35%の支持率を得ているのである。

ミッテランのイメージは、よくスフィンクスのイメージを模したものが多く、14年間に建造したルーヴルのピラミッドやミッテラン国立図書館、ラ・ヴィレット工業都市、ラ・デファンスなど、さすがやることが大きいミッテランというイメージが浮かび上がる。前任大統領の美術愛好家ポンピドーもポンピドー・センターに名を残した。サルコジはというと、よく〈Bling-bling〉という形容詞がつく。彼のサングラスや腕時計も全てブランド品、大統領に当選した晩はシャンゼリゼのフーケツで祝杯を上げ、バカンスは大資本家ボロレのヨットで楽しむ大統領だった。一方、オランドは大統領に当選した時、「自分はノルマルな大統領だ」と明言した。どこまでも「普通の大統領」として5年の任期を終えるのだろう。いや、もしかしたら「テロと戦った大統領」の方がぴったりするかもしれない。