マダム・キミのシルバーラウンジ:7月1日号

 Y子さん(72)は1944年、大連に生まれ、戦後、四国で育つ。父は船舶関係で働いた。母親は中学教員。Y子さんは美術学校に通いながら、お手伝いさんや産婆の助手にもなり学費を稼いだ。生活体験が増すにつれて美術から文学に転向、ドフトエフスキーなどを熟読する。早大にいたが学園闘争の最中、中ソ対立期に日ソ友好協会を介しソ連の奨学金を得、大学を中退して留学した。

ソ連・東欧の激動期にモスクワに?
ナホトカ→シベリア→モスクワ経由です。モスクワで1年間ロシア語を学び、レニングラードに5年いました。東西の様々な国の留学生仲間と今も交友を続けていますが、旧ソの学生との付き合いは極めて少なく、しかもそのほとんどはユダヤ人でした。ブダペストから留学していた社会学専攻のGと知り合い、71年に結婚。彼はハンガリーから出るために結婚する必要があったのです。彼は、日本に帰国した私に合流する前に、パリに滞在し博士課程を終了。その後、日本で博士論文「スターリニズム」を書き上げ、再びパリに戻りました。ハンガリーのパスポートの有効期限が切れたため彼が強制送還通告を受けたとの知らせに、私はパリに駆けつけました。最終的には周囲の支援を得て亡命許可が下り、その後フランス国籍を取得。81年に私は息子を出産しました。私たちは最初ロシア語で話していましたが、パリではフランス語に切り替えました。98年に離婚し、彼は出国したがっていたロシア人女性と再婚。息子は中高校時代にベルリンの父のもとに行き、独仏の東洋語学校を出て日本の国際赤十字の仕事に就き、今は同時通訳の研修中です。

クリエーターとなったきっかけは?
私はパリに居続け、紙を使った創作にのめり込み、日本の優れた大衆文化であるオリガミからヒントを得て、二次元から三次元への立体作品、特に独自の箱のシリーズに挑戦しました。かなりの日本人高年在仏者の方々が、短歌や俳句に惹かれているようですが、私もフランス語やロシア語から解放されるのは俳句を詠むときだけです。本当の自分を取りもどすことができるのだと思います。もちろん日本国内の環境で詠むのとは大分異なりますが…。