映画史と結婚した女優、 ジャンヌ・モロー(89)がパリで逝去。

イルマル・ラーグ監督『クロワッサンで朝食を』(2012)で演じるモローさん。

 ジャンヌ・モローさんも死ぬことがあるなんて……。信じたくないから妙な感慨を抱いてしまう。7月31日の朝、89歳の彼女が息を引き取った自宅は、フォーブール・サントノレ通りのアパルトマン。彼女の最初の代表作『死刑台のエレベーター』(1957)の撮影場所となったシャンゼリゼ大通りのすぐそばにある。

 1928年1月23日、パリ生まれ。飲食店店主のフランス人の父と、踊り子だったイギリス人の母を持つ。思春期に文学と演劇に目覚め、両親の反対を押し切りコンセルヴァトワールに入学した。1946年にコメディ・フランセーズに入団し、最年少女優として舞台デビューを果たす。舞台女優としての将来を渇望されたが、徐々に軸足を映画界に置き始める。

 ジャン・ギャバンと共演したジャック・ベッケル監督『現金に手を出すな』など、脇役として数本の映画に出演したのち、29歳でルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』(1957)に主演。愛人と結託して夫を陥れる美貌の悪妻役で、映画界に鮮烈な印象を与えた。続くマル監督の『恋人たち』(1958)では、やはり不倫妻を演じ、ヨーロッパ中でスキャンダルを巻き起こす。

現代女性の自由をスクリーンに体現。

 当時は、実際にモローとマルは不倫関係にあった。トリュフォーによると、「フランス映画初の性交シーンが描かれた作品」。そのトリュフォーもまた、マルと同様に、監督としても男としても、モローに心を奪われたひとりだ。1962年に『突然炎のごとく』で、男性を翻弄する破滅的なファム・ファタル(運命の女)役をモローに捧げた。こうして彼女は、ヌーヴェルヴァーグの映画運動と伴走しながら、現代女性の自由を体現する銀幕のミューズとして、永遠の輝きを放つことになる。

 映画女優としては生涯で130本以上の作品に出演。ミケランジェロ・アントニオーニ、ジョセフ・ロージー、ジャック・ドゥミ、ルイス・ブニュエル、オーソン・ウェルズ、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ベルトラン・ブリエ、エリア・カザン、リュック・ベッソン、ヴィム・ヴェンダース、フランソワ・オゾン……。モローを起用した監督は、才能溢れる大物ばかり。ピーター・ブルック監督『雨のしのび逢い』(1960)でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞、ロラン・エヌマン監督『海を渡るジャンヌ』(1991)でセザール賞主演女優賞を授賞した。

 『審判』(1962)『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』(1965)などでモローを起用した巨匠オーソン・ウェルズは、「世界最高の女優」と絶賛を惜しまない。母譲りの完璧な英語を操り、フランスだけではなく、海外の作品でも強烈な印象を残した。元シネマテーク・フランセーズ館長のセルジュ・トゥビアナは、「ジャンヌ・モローは映画史と結婚した」と表現。晩年の主演作のひとつ、イルマル・ラーグ監督『クロワッサンで朝食を』(2012)では、シャネルを華麗に着こなすちょっと気難しいマダムを好演。日本では独立系の作品としては異例のヒットを記録し、根強いモロー人気を見せつけた。

 また1970年代からは監督業にも進出している。『リュミエール』(1975)、『ジャンヌ・モローの思春期』(1978)の2本のフェクション作品と、サイレント時代の大女優についてのドキュメンタリー『リリアン・ギッシュ』(1983)を残した。私生活では俳優のジャン=ルイ・リシャールと監督のウィリアム・フリードキンとの結婚を経験し、リシャールとは一人息子をもうけた。俳優や監督、映画業界の有力者など、浮名を流した男性は数知れず。5年間恋人関係にあったデザイナーのピエール・カルダンは、「彼女の子供を作らなかったのが一番の後悔」なのだそう。

恋多く、知的。社会に視線を向け続けた芸術家。

 「恋多き女」のイメージは、これまで演じてきた女性像と重なるが、素顔はさらに知性派で、反骨精神も備えた自立した女性の代表格。常に弱いものの立場に立ち、時にストレートな政治的発言も辞さない。例えば人工中絶の自由化を求めるマニフェストに名を連ねたり、投獄されたロシアの女性ロックバンドグループへの連帯をラジオで呼びかけたり、セゴレーヌ・ロワイヤル大統領候補(2007年サルコジ候補と大統領の座を競った)支持を訴えたりしたことが挙げられる。自宅のサロンは立派な文学の蔵書に囲まれ、文学者の友人も多かった。マルグリット・デュラス、アンドレ・ジッド、ヘンリー・ミラー、アナイス・ニン、ジャン・ジュネ、ジャン・コクトーなどと親交を持った。とはいえ「私は一人で歩けるから、グループには入らない」と、誰かと徒党を組むことは嫌っていた。

 芸術に対する鋭い嗅覚で、才能溢れる監督と手を組み、手助けをする姿勢は60年来一貫している。『死刑台のエレベーター』の撮影当時、モローはすでに演劇界で名を馳せた存在。だが、当時25歳のルイ・マルが自己資金で製作する作品の主演を引き受け、彼の長編フィクション作品のデビューに花を添えたのだ。晩年は、ヨーロッパの若手監督を応援するアンジェ市のプルミエ・プラン映画祭に後見人として積極的に手を差し伸べたことも強調されるべきだろう。個人的にはこの映画祭の会場で一般の人たちに混じって座り、小津作品の素晴らしさを観客席から情熱的に説いていたシネフィルぶりも忘れがたい。(瑞)